(627)生き死にの死の側ともす落蛍/佐藤鬼房(1919~2002年)
命がわずかとなり地面でじっとする蛍か、あるいは既に死んでいるかもしません。少なくとも求愛のため川辺を飛ぶ光ではないでしょう。条件が揃(そろ)えば死後も発光することがあるそうですから、命を失いながらなお闇にある光かもしれません。同じ一つの命を持つ生き物として、人も同じように光を持つことはあるでしょう…
関連リンク
- ・(626)茎右往左往菓子器のさくらんぼ/高浜虚子(1874~1959年)
- ・(625)校舎より見ゆる泉の名を知らず/夏井いつき(1957年~)
- ・(624)硝子器は蛍のごとく棚を出づ/山口優夢(1985年~)
- ・(623)ネクタイの柄槍と盾熱帯魚/橋本直(1967年~)
- ・(622)生きてあれば癈(はい)兵の霊梅雨びつしり/佐藤鬼房(1919~2002年)
「秀句の泉」は、俳句の魅力を伝えます。執筆は俳人の永瀬十悟さん(福島県須賀川市)、浅川芳直さん(宮城県名取市)、及川真梨子さん(岩手県奥州市)の3人。古典的な名句から現代俳句まで幅広く取り上げ、句の鑑賞や季語について解説します。