福島・双葉駅、始発から終電まで利用者の思いを聞く 全町避難一部解除から1年、見えてきた町の「いま」

東京電力福島第1原発事故に伴う全町避難が11年半続いた福島県双葉町。一部地域で避難指示が解除されてから1年が過ぎた。新しい建物が目を引く一方、脇道に入ると、住宅が解体された後の空き地や、手付かずの家屋が残る。復興の途上にある町の交通拠点JR双葉駅にはどんな人が降り立ち、何を語るのか-。無人駅に始発から終電まで張り付くと、今の町の姿が見えてきた。(報道部・池田旭、岸菜々美、生活文化部・高橋杜子)
[福島県双葉町]原発事故前の人口は約7000人。全町避難を強いられ、2013年に町面積の96%が帰還困難区域となった。20年3月、放射線量が比較的低い町北東部の避難指示解除準備区域が先行解除されたが、生活インフラが整わず居住できなかった。22年8月30日、双葉駅周辺など特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示が解除され、住民の居住が可能になった。8月1日時点の居住人口は86人。
震災後入社 若手記者が一日密着
8月30日午前5時50分。分厚い雲の間から日が差し込み、既に蒸し暑い。汗を拭っていると、56分発いわき行き4両編成の始発列車に乗り込む男性がいた。
駅西側にある災害公営住宅に住む行政書士松枝智之さん(51)。家族と暮らす郡山市の自宅へ帰るという。町には用事がある週1、2日だけ泊まる。町に学校はなく、やむなく二拠点生活を送る。長女郷海(さとみ)さん(12)の名前には「古里の海を忘れない」との意味を込めた。「双葉を盛り上げるには学校が必要」と語る。
同じ始発列車から、隣の福島県浪江町に住む渡辺薫さん(57)が降りてきた。町内にある東日本大震災・原子力災害伝承館の企画広報課の職員だ。開館は午前9時だが、いつも始発で通勤している。
横浜市出身。震災当時は埼玉県所沢市の郵便局に勤めていた。両親が山形市出身で「自分のルーツがある東北で役に立ちたい」と決意。復興庁の任期付き職員を経て、伝承館の運営に携わるようになった。
伝承館を訪れる人の半数近くは県外からだ。「(津波や原発事故を)人ごとと捉えず、いつか自分の身に起こるかもしれないと感じてくれたら」と望む。
常磐線のダイヤは上下線共に1時間1本ほど。早朝は静寂に包まれ、虫と鳥の鳴き声だけが響き渡る。午前7時6分、下り列車から数人が下車した。
小出善則さん(50)は福島県楢葉町にある建設会社の寮から、現場に向かうため、双葉駅を利用している。伝承館と県復興祈念公園を結ぶ橋の建設に5月から携わる。「建設業は地図に残り、生活を支える仕事。新しく生まれ変わる双葉に多くの人が訪れてほしい」と願った。
駅の東側を走る国道6号で、トラックの往来が激しくなり始めた。午前8時5分、通勤は「ピーク」。改札を出た10人ほどの多くが、駅前にある町役場に吸い込まれていった。
駅前のバス停で川崎市から訪れた20代の女性デザイナーに声をかけた。伝承館へ向かい、双葉の町づくりについて話し合うプログラムに参加するという。「ハード面の整備は進んだけど、その施設は誰がどのように利用するのだろう。未来を見据えた計画なのか疑問」とつぶやいた。
原発事故前、双葉駅の利用客は平均で1日500人を超えていたという。役場などへの通勤が一段落すると、再び乗降客はまばらになった。午前中に姿を現したのは、復興の様子を確かめに来るわずかな観光客だった。
「生まれ育った大事な場所」「全てが一から」故郷の再生へ、道のり一歩ずつ

正午ごろ、駅前に人通りはほとんどない。ちらほらと行き交うのは町役場に用のある車ばかり。そんな中、福島県富岡町などであるサイクルイベントの下見の前に立ち寄ったという男性が歩いてきた。
東根市の会社員佐藤智広さん(53)は「30分ほど回ったけど、人と会わない。静かで時間が止まっているみたい」と言う。小学3年生の次女(8)は震災、原発事故を知らない。「娘と再度訪れ、被災地について一緒に考えたい」と上り列車に乗り込んだ。
午後0時22分、佐藤さんと入れ替わりで女性が降りてきた。
東京都在住の韋思源(いしげん)さん(23)。仙台市内で大学院の入学試験を受けた帰り、町内の伝承館を見学するため途中下車した。中国・四川省で2008年、マグニチュード8・0の地震があった。「東日本大震災も身近に感じた」という韋さん。前日には石巻市の震災遺構も訪れた。「語り部の話を聞いたり写真を見たりすると衝撃が違う。東京に帰ったら友達に伝える」と話した。
午後3時台の電車はない。駅西側で進む災害公営住宅の工事の音ばかりが響く。午後5時、ベンチで特急列車を待つ女性がいた。
祖父と墓参りに訪れたアルバイト斎藤綺(きらら)さん(21)は双葉南小3年の時に原発事故に遭い、埼玉県加須市に家族6人で避難した。12年半前まで住んでいた自宅は帰還困難区域の中だ。
人生の半分以上を古里を離れて過ごす。双葉の友人とのつながりは薄くなった。「将来、地元に戻るかは正直まだ分からない。歩いている人も見かけないし、町に血が通っていない気がする」と迷う。
一方で古里への思いも強い。「生まれ育った大事な場所。いざ来ると懐かしい。運動会や家族で行った海水浴場。楽しかった日常を思い出す」
午後5時45分、町役場や町内の事業所から帰路に就く人が目立つ。
町職員村上卓磨さん(29)は、出身も住まいもいわき市。双葉出身の高校の後輩から話を聞くうちに町への関心が強まり、今の仕事を選んだ。「住民が戻り始め、少しずつ活性化してきた気がする」とこの1年の手応えを語った。
午後8時45分、いわき行き最終列車がホームに滑り込む。顔を赤らめた男性3人が降りてきた。
町役場の職員。町内に飲食店が少なく、仕事帰りの一杯は隣の浪江町まで遠征するという。「終電が早く、毎回この時間で飲み会は終わり。双葉にも居酒屋や飲食店が増えれば、住民はもっと生活しやすくなる」。暗い街に3人の背中が消えていった。
午後9時15分。原ノ町行き最終列車の乗降客はいなかった。この日、記者が見た利用者は100人ほどだった。近くの災害公営住宅の集会所にともる明かりに気付いた。
7月にできたばかりの自治組織「双葉町結ぶ会」がイベント打ち合わせをしていた。「全てが一からのスタート。住民同士のつながりを深め、町を元気にしていく」と共同代表の谷津田陽一さん(72)がほほ笑んだ。
記者3人は12年半前の双葉町を知らないが、原発事故前の「日常」とは遠い姿なのだろうと感じた。その中で新しい日常をつくろうと暮らし、働き、動く人たちがいた。町のこれからを見届けようと誓いながら、駅を離れた。
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