発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 >陸奥海道地方最大の須恵器生産地 5
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢
<調査の成果、極めて重要>
石巻海岸平野に南北に横たわる須江丘陵は、丘陵全体に須恵器窯が分布します。現在まで35基の窯が発掘調査されていますが、詳細な分布調査を行えば、その数は100基を超えると予想されます。古代陸奥国海道地方最大の窯跡群です。
これまで、須江窯跡群の須恵器生産の開始時期やその背景、工人の招聘(しょうへい)と仏教文化の導入、生産された須恵器の流通範囲についてお話してきました。調査・研究の成果は他の須恵器生産地では解明できていない内容を含んでいてとても重要です。実はそのほかにも、他の生産地では解明されていない須江窯跡群独特の調査成果があります。
■採掘遺構3種類
それは須恵器生産工程にかかわる遺構です。須恵器は土器ですから、原料となる粘土が必要です。須江窯跡群では、3種類の粘土採掘遺構が見つかっています。一つは粘土層をトンネル状に横に掘り進んだ跡です。幅4.5メートル、奥行き16メートル以上の巨大な粘土採掘坑が発見されています。調査時も落盤の可能性があるので、トンネルの天井部を壊しながら調査しました。
二つ目は井戸のように素掘りの穴を下に向かって掘り進めたものです。約9メートル×5メートルの不整形の大きなものから1メートル弱の小さなものまであります。三つ目は斜面を壁状に粘土を削り取ったものです。長さ20メートル以上の範囲の壁を削った痕跡が発見されています。
焼き物に使う粘土は、粘土層から採掘した後、植物繊維や石などの不純物を取り除く必要があります。不純物を取り除くのにスイヒという方法があります。水を入れた大きな桶(おけ)の中で粘土を撹拌(かくはん)することで軽い植物繊維を上に、比重の重い石を下に沈める方法です。
■貴重なスイヒ跡
関ノ入遺跡の粘土採掘坑周辺で、水の流れる沢の付近からスイヒに使ったと考えられる土坑(どこう)が数基見つかっています。スイヒに使った土坑は全国でも発見されていません。関ノ入遺跡の土坑も断定することは難しいのですが、堆積している土や状況証拠から私は粘土精製に使った土坑と考えています。
また、須江窯跡群の須恵器窯の調査から、製品の窯詰めの方法が判明しています。窯詰めとは須恵器を焼く時に窯の中に土器を並べることです。須江窯跡群では窯尻(かまじり)(窯の中の奥で煙出(けむりだ)しに近いところ)側に小型の土器である坏(つき)を並べ、焚口(たきぐち)(薪を焚く燃焼部付近)に近い側に中・大型の甕(かめ)や壺(つぼ)を配置しています。
特に、小型の坏は小石を詰めて逆さに伏せて床に突き刺し、その上に数個の坏を逆さに重ねて並べています。逆さに伏せて重ね焼きする例も全国的には珍しいようです。成形した土器を重ねて窯の中で焼くと高温で融着してしまうことがあります。奈良時代後半には藁(わら)を挟み込んで融着を防ぐ工夫がなされるのですが、須江窯跡群では藁の痕跡(火襷痕(ひだすきこん))がありません。米粒大の粘土粒を挟んだ痕跡があるので、粘土粒を挟んで重ねて窯詰めしたものと考えられます。
ところで、須江窯跡群では一年中須恵器を焼いていたか、特定の季節に焼いていたのか、分かっていません。須恵器作りの時期を推定するヒントが二つありました。一つは焼き台にした坏の内部に残っていた木の葉です。木の葉の種類から当時の植生や季節が分かります。もう一つは土器の底に稲籾(もみ)の圧痕が付いていたことです。土器づくり作業の周辺に稲籾があるということは、秋の収穫後に土器づくりを行っていた可能性を示しています。
■工程の復元、可能に
須恵器を作る工程の調査例は全国的にも多くありません。発掘調査で得られたデータを詳細に分析・研究すると、工人の系譜や技術革新の過程など、原料である粘土の採取から精製の過程、窯づくり、土器づくり、窯詰め、燃料採取と燃焼管理が総合的に復元することができます。
しらさぎ台団地と関ノ入工業団地造成に伴う50万平方メートルの発掘調査の成果は、概要を記録した報告書は刊行されていますが、詳細な記録はまだ公開されていません。今後の公開が期待されます。
関連リンク
- ・発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 >陸奥海道地方最大の須恵器生産地 4(2023年11月1日)
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