発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 >漆工房
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢
<文字残す漆紙発見、期待>
今回は古代の漆工房の話です。
■昔から用途多彩
漆は昔から日本人の生活に必要な道具として使われてきた加工具です。今でも味噌(みそ)汁のお椀(わん)やお膳、箸などの漆器、箪笥(たんす)などの木製品の塗料として使用されています。
縄文時代には石器と骨角器、壊れた土器の接着剤として使用されたり、櫛(くし)や蔓(つる)で編んだ籠などに接着剤兼着色塗料として利用されたりしていました。酸化鉄や煤(すす)を入れて黒漆にしたり、ベンガラなどの顔料を加えて赤色にしたり、漆塗料として模様を描くのにも使われています。古墳時代にも楯(たて)や甲冑(かっちゅう)、馬具などの表面に使用されていることが分かっています。
奈良・平安時代にも木製品の椀やお膳、曲げ物、革製品などに使われました。江戸時代以降も漆器や木製品の塗料に使用されるほか、高級陶磁器の接着剤に使用されています。黒漆で接着した後、赤漆を塗り、さらに金粉、銀粉を加えて接合部を加工する金継ぎ、銀継ぎも流行しました。
漆で加工するには、まず漆の木に傷を付けて樹液を採取する必要があります。集めた漆の樹液は乾燥するとすぐ固まってしまうので、口の小さい壺(つぼ)に入れ、蓋(ふた)をして工房まで運ばれます。運ばれた漆の樹液は壺から茶碗のような器をパレットにして取り分け、刷毛(はけ)などを利用して塗られます。パレットの器に残った漆は乾燥するので、上に紙で蓋をして一時的に乾燥から防ぎます。古代では紙は貴重品ですから、役所で不要になった紙(反故紙=ほごがみ)を利用します。
■役所に加工工房
さて、古代の役所には木製品を漆で加工する工房も置かれていました。古代牡鹿柵・牡鹿郡家である赤井官衙(かんが)遺跡からも漆に関係する土器が出土しています。一つは漆を運搬した土師(はじ)器壺、もう一つは漆を塗るときに壺から移した坏(つき)という器です。
■壺は土師器 代用
漆を運搬した壺は平城宮跡や前期難波(なにわの)宮(みや)跡など、古代の宮都や国府、郡家に付属する工房付近でよく出土します。多くの場合、遠隔地で生産された須恵器製の壺が使われ、樹液がもったいないので壺を割って漆を掻(か)き出してから廃棄します。赤井官衙遺跡では須恵器が入手できなかったためか土師器で須恵器をまねて作った壺を使用し、壺は宮都と同じように割った状態で出土しています。割れ口にも流れ出した漆が付着していました。
漆運搬用の壺を発見した私は、土器好きなので、どんな形の壺なのか知りたくて急いで水洗いして接合しました。その結果、ほぼ完全な形の壺が復元できました。しかし、これが失敗でした。接合して間もなく、調査現場に宮城県文化財保護課長だった桑原滋郎さんが訪れたので、復元した壺を見せながら漆運搬用の壺が出土したことを説明しました。桑原さんから「佐藤君、すぐ接合しちゃ駄目だよ。割れ口の漆が見えなくなるでしょ。意図的に割ったかどうか証明できなくなるから」と厳しい指摘を受けました。詳しい写真などの記録を撮る必要があったのです。当時、自分の至らなさを反省して落ち込んだことを思い出します。
赤井官衙遺跡からは漆を塗る時にパレットにした器が複数出土しています。中でも内面に塊として付着していた土器が2点あります。この土器が出土した時は胸を躍らせました。多くの場合、漆の乾燥を防ぐために使用済みの紙がかぶせられ、その紙に漆が浸潤(しんじゅん)して腐らずに残ります。これを漆紙と呼びます。
漆紙には古代の文字が多く残されますから、牡鹿郡の古代の文書の発見だと思ったのです。すぐに水洗いして乾燥させ、国立歴史民俗博物館館長の平川南さんに連絡し、見てもらうことにしました。土器を千葉県にある博物館に運んで行って赤外線カメラで土器内の漆の塊を映しましたが、紙の成分は残っていないことが分かりました。がっかりしたことを思い出します。
赤井官衙遺跡の漆はどこから運ばれてきたのでしょうか。また、漆工房は遺跡のどこにあるのでしょうか。興味は尽きません。いつの日か石巻地方の遺跡から漆紙のような古代の文書が発見されることを期待しています。
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