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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 >古代の塩づくり

東松島市江ノ浜貝塚の航空写真(市教委提供)
東松島市江ノ浜貝塚から出土した製塩土器と支脚(市教委所蔵)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<江ノ浜貝塚で藻塩焼き>

 土器作り、鉄作りの次は、塩作りの話です。

■百人一首に詠む

 小倉百人一首97番に「来ぬ人をまつほの浦の夕凪(ゆうなぎ)に焼くや藻塩(もしお)の身もこがれつつ」という歌があります。現代語に訳すると「松(待つ)帆の浦の夕凪の時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想(おも)って恋い焦がれているのです」という恋の歌です。新古今和歌集の選者で百人一首の選者でもある権中納言定家(藤原定家)の歌になります。ここに出てくる「藻塩(焼き)」は古代から続いていた海水から塩を取り出す製塩法のことです。

 塩は人が生きる上で欠かせないものです。動植物や岩塩から摂取することもできますが、海水から塩を精製することができればもっと簡単に摂取できます。食生活も豊かになります。日本は四方を海に囲まれているので、簡単に海水から塩を作ることができると考える人が多いですが、そうでもないのです。確かに、海水浴に行って海から上がって日光浴すると、身体の表面に塩の結晶ができることがありますが、半日かけても数ミリグラムしか取れません。海水の塩分濃度はたった3%しかないので、30グラムの塩を作るのに、約1リットルの水分を蒸発させなければならないのです。とても時間とエネルギーがかかります。

 海水から塩を作るのには、大きく二つの工程が必要です。一つ目は濃い塩水に濃縮すること、二つ目はさらに煮詰めて結晶化することです。先に書いた藻塩は、藻と共に濃度の高い海水を煮詰めて結晶を表面積の多い藻に付着させ、その藻を取り出して焼くことで藻は灰になり塩だけを取り出すという方法です。

 さて、人はいつから塩を作っていたのでしょうか。日本では縄文時代後期から土器で海水を煮詰めて製塩する「土器製塩」が行われています。宮城県では縄文時代晩期に仙台湾を中心に行われ、石巻地方でも万石浦湾や古稲井湾に製塩土器が出土する所が多くあります。弥生時代にも製塩が行われていますが、古墳時代の塩作りはよく分かっていません。奈良時代の終わり頃から平安時代に仙台湾や万石浦湾で再び製塩が盛んに行われています。

■製塩土器の破片

 石巻地方で発掘調査された古代の製塩遺跡に東松島市宮戸の江ノ浜貝塚があります。1971(昭和46)年に一度調査されましたが、東日本大震災後の海岸堤防復旧工事に伴い再び発掘調査が行われました。遺跡は松島湾を間近に臨む標高1~2メートルの微高地に立地しています。調査では、凝灰岩の切り石を使った石組みの炉や海水を煮詰めるときにできた漆喰(しっくい)状の塊、灰、焼け土とともに、多量の製塩土器の破片が出土しています。製塩土器は大きい厚手の土器と小さい薄手の土器の2種類があって、作業工程や場所によって使い分けていたようです。漆喰状の塊の周辺からは海草(アマモ)に付着するウズマキゴカイが焼けた状態で見つかっていて、海草を焼いて塩を得る「藻塩焼き」を行ったと考えられます。

■官営の可能性も

 製塩土器のほかに、土師(はじ)器や須恵器の土器も出土していて、平安時代前期(9世紀初頭から後半)に製塩が行われていたようです。そのほかに石帯(せきたい)と呼ばれる役人のベルトの飾り具が出土しています。江ノ浜貝塚の製塩に役人が関与していたことを示すものです。つまり、江ノ浜貝塚は平安時代初期の陸奥国の官営製塩工場の可能性が高まったのです。

 北上川河口の東岸では万石浦湾の梨木畑貝塚、にら塚貝塚、一本杉貝塚、大浜遺跡、青木浜遺跡、稲井の平形山根貝塚などからも製塩土器が出土していて、ここでも製塩が行われていたと考えられます。昭和に行われた万石浦の入浜塩田による塩作りよりもはるか昔から塩を作っていたのです。

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