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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 >蝦夷征討の終焉と道嶋氏

胆沢城の復元模型(奥州市埋蔵文化財調査センター蔵)
胆沢城跡出土第18号漆紙文書実測図(上)と釈文(下)(「胆沢城跡―昭和58年度発掘調査概報―」より。奥州市埋蔵文化財調査センター提供)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<陸奥平定活躍後、姿消す>

 桓武天皇の蝦夷(えみし)征討は征夷大将軍坂上田村麻呂(せいいたいしょうぐんさかのうえのたむらまろ)の活躍によって終焉へ向かいます。その征討に陸奥の豪族として力を発揮した道嶋御楯(みちしまのみたて)の話から始めましょう。

 道嶋宿禰(すくね)御楯は牡鹿郡出身の道嶋氏一族の一人です。神護景雲(じんごけいうん)元(767)年に「陸奥国大国造(おおくにのみやっこ)」に任じられた道嶋嶋足(しまたり)、「陸奥国国造(くにのみやっこ)」に任じられた道嶋三山(みやま)、宝亀(ほうき)11(780)年伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の乱で殺害される道嶋大楯(おおたて)に次いで登場します。

 延暦(えんりゃく)8(789)年、桓武天皇の第1次征討で阿弖流為(あてるい)らの蝦夷軍に大敗を喫する際、出雲(いずもの)諸上(もろがみ)らとともに別将(べっしょう)を務め、敗走する兵を率いて帰還したことが「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記録されています。別将とは征夷軍の小隊の統率者で、それほど高い役職ではありません。延暦13年、同20年の第2次、第3次征討の記録は「日本後紀(こうき)」の欠落から詳細な記録がありませんが、第3次征討の頃には鎮守軍監(ちんじゅぐんげん)(鎮守府将軍、副将軍に次ぐ三等官)を務めているので、第2次、第3次征討で活躍したものと考えられます。

■御楯が副将軍に

 胆沢(いさわ)城が造営された延暦21年には、道嶋嶋足以来の陸奥国大国造に任じられました。この時の位階は外従五位下(げじゅごいのげ)なので、地方出身の位階である外位(げい)としては最高位に当たります。延暦23年の桓武天皇の第4次征討計画では、征夷大将軍坂上田村麻呂に次いで、百済(くだらの)王教雲(こにきしきょううん)、佐伯社屋(さえきのもりや)とともに征夷副将軍に名を連ねています。道嶋御楯は地方出身者としてはまたしても異例の、中央官人が任命される役職を任じられることになったのです。

 奈良時代半ばの天平宝字8(764)年、中央で起こった藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の乱の時、坂上刈田麻呂(かりたまろ)と道嶋嶋足の盟友が活躍しました。時と場所を変えて陸奥国で刈田麻呂の息子の田村麻呂と道嶋氏一族の御楯がそろって活躍することになったのは、不思議な縁としか言いようがありません。

 大同3(808)年、多賀城から胆沢城に移された鎮守府の副将軍に任じられますが、大同年間中の中央官職の機構改革で鎮守副将軍の定員が減じられ、鎮守副将軍の任を解かれたようです。その後の正史には登場していません。

■征討、造都を停止

 坂上田村麻呂が軍事拠点として延暦21年に胆沢城、翌22年に志波(しわ)城の城柵を造営し、蝦夷平定に進む中、延暦24年に国家の方針が転機を迎えます。桓武天皇が参議の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道に天下の徳政について討議させます。論争後、桓武天皇は「天下の苦しむところは軍事と造作なり。両事を停(と)めれば百姓安ずる」とする藤原緒嗣の意見を採用して桓武朝の二大事業であった蝦夷征討と都城(平安京)造都を停止することにしたのです。徳政相論と呼ばれる政策論争です。

 弘仁2(811)年、陸奥(むつ)出羽(でわ)按察使(あぜち)文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさつたい)、幣伊(へい)の蝦夷を討ったのを最後に、桃生城襲撃から始まった38年におよぶ戦争は終焉を迎えることになりました。こうして平安時代初め頃に陸奥・出羽北部に城柵・郡が置かれ国家の版図に組み込まれていったのです。

■歴史書 登場せず

 この時期を最後に、国の歴史書に道嶋氏は登場しなくなります。まさに、牡鹿郡の丸子・牡鹿連(おしかのむらじ)・道嶋宿禰一族は大化改新(646年)以降の国家の版図拡大政策と共に登場し、蝦夷平定という版図確定する時期に姿を消す、国家政策と共に活躍した一族であったのです。

 京で貴族となった道嶋宿禰嶋足の子孫は貴族として存続しますが、京の大きな変革にはほとんど関与していません。

 牡鹿郡あるいは桃生郡の氏族としては、牡鹿連氏が9世紀以降も名前が出ています。胆沢城跡の発掘調査で出土した第18号漆紙文書に、承和(じょうわ)10(843)年2月26日に(小田団)□(主ヵ)帳牡鹿連氏縄が軍団兵士の欠勤報告をした記載が見えます。道嶋氏とは別の石巻地方の一族でしょう。石巻地方の記録はわずかなものとなってしまいました。

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