能登半島地震 津波の爪痕、東日本大震災と重なる 本紙記者被災地ルポ
日本海沿いの県道を北に進むと、津波の深い爪痕が残る集落にたどり着いた。1日夕、東日本大震災以来となる大津波警報が出された能登半島地震。被災地の現状を見て、13年前の教訓を発信し続ける石巻地方の人々に伝えたい。発生から間もなく1カ月となる29日、津波が押し寄せた石川県珠洲市三崎町寺家に入り、再起へ歩み出した人々に会った。(及川智子、相沢春花)
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被災した家屋や打ち上げられた漁船に、13年前の石巻地方の光景が重なった。医療関係や災害復旧支援の車両が、亀裂や段差のある路面を徐行しながら走る。
午前9時過ぎ、同市みさき小を過ぎて半島先端部に近づく。黒い瓦屋根の住宅がいくつも倒壊していた。2階建ての建物の1階部分は津波で窓が抜かれ、背後にあるコンクリートの壁が見える。
■隆起地盤が露出
海では防潮堤が一部崩れ、消波ブロックの向こうには所々隆起した地盤が海面に露出している。砂浜には漁網や浮き、家財道具などが転がり、船が取り残されていた。人の気配はわずかで、被害程度が大きくなるにつれて住民の姿は見かけなくなった。
農業を営む新出雄基さん(39)が、津波で浸水した納屋の状況を確認していた。この地域は昨年5月、珠洲市で震度6強を観測した地震でも大きな被害を受けている。今回は自身や弟の自宅、実家が被害を受けた。「やっと修繕を終えたばかりのものもあったのに…」。繰り返す災害と甚大な被害を前に、淡々と語る一方で表情にはやるせなさがにじんでいた。
家屋の倒壊や津波の被害が広がった中、寺家には速やかな避難で犠牲者が出なかった地区がある。32世帯約70人が暮らす大浜地区だ。
■訓練の成果実る
「東日本大震災の津波は脳裏に焼き付いていた」、区長の舟木茂則さん(68)が語る。大浜は寺家の4地区のうちで唯一、高台の指定避難所がない。住民たちは、畑やビニールハウスがあり日頃から往来が多い高台に避難しようと決め、毎年の防災訓練で実践してきた。
舟木さんは、1回目の地震後すぐに自宅から外へ飛び出した。揺れの大きさに「本能的にやばいと思った」。5~10分で避難場所へ移動。周囲では軽トラックに住民を乗せて避難した人もいた。身を寄せた住民らはビニールハウスや車で暖を取りながら夜を明かした。翌日から安否確認を進め、約10日後には住民全員の無事が確認できた。
「こんなんあるんか」。地元の森林組合で働く上浜修平さん(69)はあの日、津波が押し寄せる海を見ながら思わず言葉を漏らしたという。
地震は立っていられないぐらい激しく、長い横揺れで、3分も続いたように感じた。一緒に暮らす妻と母の他に、娘や親戚らが遊びに来ていた。99歳で寝たきりの母を担ぎ、車で高台へ向かった。
仕事用の車を取りに自宅に行くと、海の波が数十メートル以上引いていた。海底が広がり不気味だった。すぐに高台に戻ると、津波が2回、3回と集落に押し寄せてくるのが見えた。「東日本大震災以来、津波からの避難に力を入れていた。あらかじめどこに逃げるかも頭に入れていた」。地域としての備えが多くの住民の命を救った。
上浜さんも仕事道具などを入れた倉庫が浸水したが、3日後には井戸水をポンプでくみ上げてまきで沸かし、風呂に入った。その後は地区住民らに無償で風呂を提供している。
現在は舟木さんらと準備を進め、市から提供を受けた五右衛門(ごえもん)風呂で露天風呂作りを進める。設置場所は漁網などが保管されていた海岸の小屋。現在5人ほどが寝泊まりする地区の集会所からも近い。「癒やしや楽しみが必要。きれいな海を見ながら温かい湯につかってほしい」
■仮設の整備進む
断水が続き、地域に残った人も2次避難を選んだ人も日常に戻れず不便な生活を強いられている。取材の帰路に再び通ったみさき小のグラウンドでは、応急仮設住宅の建設が進む。生活再建に向けた動きは始まったばかりだ。
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