滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第1部・震災編(1) 3月11日 生涯忘れられぬ日に
一つの道を究めた人たちがいる。時には急流にもまれ、時には霧の中を迷いながらも、人生という大河を進んできた。産業や文化など各分野で実績と存在感が際立つ石巻地方の先駆者たちが、その半生を語る。
1人目は石巻魚市場元社長の須能邦雄さん(80)。漁業会社の船員として世界の海を渡り、魚市場社長としては長年、水産業の振興に尽力してきた。第1部は東日本大震災での体験や産業復興に奮闘した歩みを振り返ってもらった。(聞き手は大谷佳祐)
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東日本大震災が発生した2011年3月11日は、生涯忘れられない日になった。その日の朝は普段通りに仕事をして、午後1時半ごろから石巻魚市場の管理棟にある会議室で、市場周辺の冠水対策について石巻市水産振興協議会、県、石巻市の関係者で協議していた。
午後2時46分に発生した地震は30秒ほどであろう通常の地震に比べ、約3分も続いた。「天井が抜けるのではないか」と感じ、いつでも机の下に潜れるように両腕で机をしっかり押さえ、中腰で構えた。
大洋漁業でサハリン(ロシア)に勤務していた時代、ホルムスクの峠を越える際に、砂利道をオフロード型四輪駆動車で走行すると、前後左右に大きく揺れた。転覆の危険を感じたことを思い出した。
同時に、あまりの長い揺れに3階建ての管理棟が崩壊するかもしれないとの恐怖も感じた。
幸い会議室は落下するものがなく、揺れも収まった。会議を再開しようと外を見ると、道路上の電柱が30度ほど傾き、亀裂の生じた道路からは液状化した黄色の砂が約1メートルぐらいの高さで噴き上げている。
そこで事の重大さに気づき、会議を中断して解散した。
すぐに魚市場の事務所に戻ると、コウナゴの親、メロウドの集計作業中の若手職員が残っていた。すぐに帰宅を促した。冠水して市場から車が出せなくなって避難できなくなるのはまずいと思い、私も約200メートル北の県の施設(試験場)に車を移動させ、事務所に戻った。
携帯ラジオではアナウンサーが津波の危険と高台への避難を連呼している。2010年2月28日のチリ地震が、津波警報の予想高さが3メートルだったのに対して実際は数十センチだったため、津波に対する警戒心は全くといっていいほど持っていなかった。
事務所内に戻ると、残っていた社員がホッとした様子だった。どうやら事務所にいるはずの私がいなくなっていたので、亡くなっているのではないかと思われていたようだった。
その後、机から落ちた書類や倒れたパソコンを元に戻した。読みかけの書類を見ても集中できず、津波到達時刻の午後3時10分になった。興味本位で屋上から海上を眺めたが、普段と同じか、またはそれ以上に海面は穏やかだった。逆にこの静寂さに不気味さを一瞬感じた。
そう思ったのは私が大学生の時、遠洋航海でインド洋を夜間航海中、デッキでベタなぎの海を見ていた際、船員が突然行方不明になるのは、ベタなぎの海面に波紋を生じさせたくて飛び込むという話を聞いたことを思い出し、急に不安を感じたことがあったからだ。
とりあえず、市場を出て避難しようと思い、午後3時20分ごろ、車に向かった。ただ、どうしても津波は見ておきたいという気持ちはあった。幸いにも、家内が船橋(千葉県)の娘の家に行っていたので、当時住んでいた鹿妻の自宅に戻ろうとは思わなかった。
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