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まちと人との架け橋に 石巻かほく、創刊44周年

渋滞解消やアクセス向上に役立つと期待される山下中里高架橋
40年来の悲願、出島架橋。手前は出島=1月
クレーン船につるされたアーチ橋の巨大な中間部分=昨年11月
東中瀬橋の建設が予定されている北上川

 三陸河北新報社は1980年4月21日に「石巻かほく」第1号を発行し、きょう21日、創刊44周年を迎えた。以来「地域と共に歩む」をスローガンに、地域をつなぎ、人々を結び、思いを渡してきた。

 時をつなぐ。44年前の創刊年に紙面に登場した人は今、何を思うだろうか。昭和、平成、令和。東日本大震災をはじめ幾多の困難に直面しつつ、その都度立ち上がり、前を向いてきた。

 人と物の流れがつながる。石巻地方では橋の完成が相次ぐ。長年の悲願だった橋、分断を解消してくれる橋、震災前の面影を感じさせてくれる橋。隔ててきた物を越え、両サイドが結ばれる。

 これからも石巻かほくは地域の皆さま、読者の皆さまと歩んでいきます。

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山下中里高架橋(石巻)

<中心部のアクセス向上>

 鉄路で分断されている石巻市のJR石巻駅周辺の地域に、山下中里高架橋が3月25日に開通した。沿線に商業施設が連なる中里バイパスと山下地区の国道398号をつなぐ。

 橋は全長292メートル、高さは最大約12メートル。仙石線と石巻線、市道などの上を通る。青銅製の橋名板(縦15センチ、横45センチ)計4枚に刻まれた「山下中里高架橋」「令和6年3月完成」の文字は、地元の山下小と中里小の児童が書いたものを元に制作された。

 開通したのは高架橋を含む570メートル。総事業費約84億円で2016年度に着工した。これによって都市計画道路「七窪蛇田線」(全長2720メートル)が全線開通した。中心部のアクセス向上、災害時の郊外への避難道としての活用が期待される。市立病院と、石巻赤十字病院を結ぶ搬送路としても位置付けられる。

 開通部分の事業の歴史は長い。1977年度にルートの北側部分の用地を市が確保した後、鉄道との交差手法などが決まらず、事業は事実上、休止になった。基礎調査と基本計画策定の着手は2013年。当初18年度完成の予定だったが、国の予算確保などが難航した。

出島架橋(女川)

<産業と命の道、12月に開通>

 女川町の離島、出島と本土を結ぶ橋がいよいよ12月に開通する。橋は全長364メートル。昨年11月、アーチ状の中央部が設置され、本土と島に橋が架かった。

 最盛期に約1800人が暮らした島の人口は約90人。今は1日3便の航路しかない。開通後は町中心部から車で15分ほどで行けるようになり、観光振興や災害時の避難道路としての活用、医療機関へのアクセス向上が期待される。

 総事業費は約170億円で2017年に本体工事に着手。架橋作業は昨年10月に始まった。約2500トンのアーチ部分をつり上げるため、国内最大のクレーン船「海翔(かいしょう)」が使われた。

 架橋は40年以上前からの地元の悲願。工事の映像をリアルタイムで大型スクリーンに映す「パブリックビューイング(PV)」には、町民や小中学生、元島民らが参加し、悲願がかなう瞬間を目に焼き付けた。

 島は面積2.68平方キロメートル。ギンザケ、ワカメ、ホタテの養殖が盛んで、開通後は海産物の陸送が可能になる。交流人口拡大を目指し、釣りやトレッキングなどの観光資源開発などが進む。

東中瀬橋(石巻)

<工事用の桟橋、姿見せる>

 石巻市の湊、中瀬の両地区を結ぶ東中瀬橋は市が整備を進め、自転車と歩行者専用橋として2026年度の完成を目指す。東日本大震災まで石巻のシンボルだった中瀬を挟んだ橋が、形を変えて帰ってくる。

 全長115メートル、幅4メートル。18年度に着工し、現在は工事のための桟橋が姿を見せる。社会資本整備総合交付金を活用しながら整備を進め、総事業費は約19億9000万円を見込む。

 21年1月に開通した西中瀬橋は県が整備し、市中心部と中瀬地区を結ぶ。市中心部と湊地区をつなぐ新内海橋は旧内海橋の上流に建設された。東中瀬橋は湊地区から中瀬公園を含むエリアへ直接のアクセスを可能にする。

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創刊当時の紙面紹介

■「つつじ野」執筆 鈴木とみ子さん

創刊号から6日後に掲載された鈴木さんのつつじ野

 「日常をつづっていたので、見返すと日記を大勢の人に公開しているようで恥ずかしいね」。創刊当初から続く随想「つつじ野」で、1980年4~6月の日曜付を担当した鈴木とみ子さん(75)=女川町竹浦=は当時の記事を見ながら懐かしそうに振り返る。

 執筆当時は31歳、石巻市職員で2児の母でもあった。子育てや仕事でばたばたしながらも、手書きで原稿を仕上げていたという。3カ月執筆し、家族との生活の一コマや友人との思い出など、一人の生活者、女性の目線で形にした。

 44歳になった1993年は7、8月に2度目の執筆に挑戦。女川みなと祭りなど、地域の話題にも触れている。

 元々、童話や詩の創作が好きで、月刊誌に投稿するほど文芸活動に積極的。紙面も含め掲載されたものはスクラップしていたが、東日本大震災で自宅が流失した。「思い出がなくなり残念でならない」と話す。

 高台に自宅を再建した2017年、今度は夫の成夫さん(75)が8、9月のつつじ野を担当した。「まさか夫婦そろって書くことになるとはと驚いたが、執筆の際にアドバイスを送っていたんだ」とほほえむ。

 今も石巻かほくは地域の情報を得る大事なツールだという。執筆者と読者、両方の視点から「地元の人のより深い話が好きで、移住してきた人たちのさまざまな経験や考え方もあって興味深い。書くことで自分史のような記録にもなる」とつつじ野の魅力を語った。

■「こんにちワ」に登場 本間英一さん

創刊年1980年の7月に掲載された本間さんの記事

 石巻市門脇町2丁目の石巻ローンテニスクラブを経営する本間英一さん(75)は、1980年7月3日の人物紹介コーナー「こんにちワ」に登場した。当時は31歳で、前年にクラブを開設したばかり。記事の写真を見て「若かったね」と懐かしむ。

 当時は全国的なテニスブーム。記事には会員が180人を数えたと書いてあり「そんなにいたんだ」と驚く。レッスンのないプライベートクラブは現在では少なくなったが、県内で最も古いという。

 記事では妻とのなれそめも明かしていた。夫妻は石巻市ミックスダブルス大会の最多優勝を誇るペアでもある。「夫婦ペアはよくけんかをすると言われるが、勝てばそうはならない」と笑う。

 テニスコートは東日本大震災の津波で被災。泥やがれきを片付け、2011年5月にクラブを再開した。プロ選手や用具メーカーの支援も多く受けた。現在会員は二十数人に減ったが、70、80代の愛好者らがプレーを楽しむ。「なんとかあと5年は続けられるかな」

 自身が参加する石巻千石船の会の活動など、関係がある記事は保存してきた。旧幕臣の榎本武揚の子孫が石巻を訪れた際には、随行した様子を石巻かほくに寄稿した。「新聞は過去のことを調べる時に最も頼りになる」と語る。

 石巻かほくでは随想「つつじ野」を執筆したことも。「昔の記事の再録も面白いので、たまに企画してほしい」と期待した。

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石巻かほく メディア猫の目

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