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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第1部・震災編(3) 津波の衝撃、目の当たりに

須能さんが震災翌日に牧山から見た石巻市渡波地区。当時は津波で流された車などがポツポツと黒点に見えたという

 3月12日、前日に降っていた雪はやみ、寒い朝を迎えた。零羊崎神社の本殿にいた宮司が私のところにやってきた。聞けば、山の下に広がる田畑に数え切れないほどの車が津波で流されているという。私も見に行った。ぽつぽつと黒点に見えるものが無数に広がっていて、元の地形が分からないほどだった。

 宮司は本殿から少し下山した先の社務所に行くというので、私の車に避難していた運送会社の若い運転手と共に宮司の車に乗せてもらうことにした。

 社務所には150人ほどの避難者がいた。中に入りきれないほどで、避難してきた人たちがそのまま一夜を過ごしたという。

 そこでは水産加工会社の関係者が指揮を執り、ジュースなどを配っていた。そのうちの一人は数人の中国人技能実習生を案内して来ていた。若い女性たちの表情は日本人以上に疲労感が感じられた。後で知ったが、石巻や女川にいた中国の実習生は全員無事で、早期に帰国させることができたという。

 私と運転手もジュースをもらい、車を牧山に残したまま徒歩で来た道(渡波方面)を下山し始めた。

 避難してきて道に止まっていた車は、前日に登って来た時とほぼ同数だった。途中で魚市場の職員が乗った車が通りかかった。牧山に避難したはずの職員を捜しているとのことだったので、気をつけるよう伝えて別れた。

 牧山の入り口辺りまで下りた。ようやく、車が民家の庭や外壁に乗り上げていたり、低地に二重、三重に積み重なっているのをはっきりと見た。牧山トンネルに近いコンビニで石巻の水産業の関係者と出会い「お互いに頑張ろう」と励まし合った。

 周囲の様子を見ながら自宅のマンションへ向かった。浸水した家の人々や車から脱出した人たちが無言でたたずむ姿や、夢遊病者のようにあてどもなく歩く姿があった。

 重い足取りでやっとマンションに到着した。自宅は4階にあった。1階の各部屋には津波が流れ込んでいて、布団などの家財が壁に張り付いていたり、流出していたりしてびっくりした。1階のエレベーターの扉も変形していた。津波の衝撃の大きさにがくぜんとした。

 階段を上り、2階以上には津波の影響があまりなかったと分かった。4階にたどり着き、マンションの周囲を見た。崩壊した建物はほとんどないが、1階の中は全て空洞のような状態。水圧で家具などは外へ投げ出されているようだった。

 自分の部屋に入ると、玄関脇の物入れの扉が開放され、中のものが散乱していた。書棚は壊れ、本も散乱。食器棚も倒れ、ほとんどの食器が壊れていた。電子レンジ、トースターといったものも飛び散っていた。買ったばかりのテレビも倒れていたため、故障を心配した。

 あまりのひどさで何も手をつけられる状態ではなかった。まずはコーヒーでも飲んで落ち着こうと、電気ポットの水を鍋に入れてガスコンロで温めた。

 そのマンションは都市ガスでなく、プロパンガスだったからその時も使うことができたということは後日知った。落ち着くとそこで初めて空腹を感じた。インスタントラーメンなど遅い朝食を取った。

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