滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第1部・震災編(5) 水産業界再建へ 復興会議設立
東日本大震災で甚大な被害を受けた水産業界を立ち直らせるため、業界関係者、石巻市、石巻商工会議所による協議を2011年3月24日、市役所で開催した。
市、石巻商議所、市水産振興協議会、石巻魚市場買受人協同組合、石巻冷凍協議会のトップらが集まった。市長室で水産業界の再建復興宣言を採択。(1)水産業は石巻の基幹産業である(2)水揚げ再開が街の活性化の原動力である(3)水産業界が一丸となって再開に向けて頑張る-などと宣言し、市民に大きな勇気を与えることができた。
30日には水産振興協議会の伊妻壮悦会長代行を代表とした「水産復興会議」を立ち上げた。各社は事務所や加工場、冷蔵庫などを失った。連絡手段も個人の携帯電話のみだったことから、集合して意見交換する場が必要だと痛感していたからだ。
開催の数日前の連絡だったにも関わらず約200人が出席した。ほとんどの人が震災後初めて顔を合わせる機会だった。無事を心から喜んでいた。会議に来られない経営者や解雇された従業員の方々にも現状を知ってほしく、マスコミに公開して報道してもらった。
質問で上がった課題は雇用と金融(多重債務)、流失書類、決算など。いずれも経営者に共通した悩みだった。早期の水揚げ再開や、水産加工団地の復旧のための解決策も議題に上がった。冷蔵庫が被災したことで腐敗した在庫製品の処分、がれき撤去の早期化を行政に要求することも協議した。
魚市場背後地の加工団地一帯はがれきの山だった。立地している企業ですら詳しい被害状況を把握できていなかった。魚市場も全壊し、当初は誰もがどうすればいいのか分からないという状況だった。まずは腐った魚の処理から始めることにした。
作業は4月9日にスタート。市場の職員をはじめ、震災の影響で解雇された従業員ら水産関係者が約150人集まった。当時はこの一帯にボランティアが入ってきていなかった。みんなが「自分たちでやろう」という気持ちだった。
県が国に働きかけ、日当を出してもらうことになった。午前7、8時ごろに集合し、いくつかの班で夕方まで働く流れをつくった。発泡スチロールや段ボールをはぎ取って魚を取りだした。サンマ、イカ、カレイといった生の魚類は4月のうちに沖合投棄が認められたが、包装はごみとして分別が必要だった。
漁港の岸壁を使い、2カ月かけて約5万トンの在庫を処分した。強烈な臭いが広まる。当時は風呂に入れなかったし、体中に染みつく臭いを取ることができない。過酷な作業だった。
それでも、悪いことばかりではなかった。若者から経験豊富なベテランまで、上下関係なく全員が力を合わせて作業に当たった。漁港に関わるメンバーの結束力が非常に高まった。思っていることを言い合える空気になり、合意形成をしやすい土壌ができた。
震災と津波は大きな試練だったが、いい面もあるのだと実感させられた。
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