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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第2部 少年期編(1) 運動は何でもの健康優良児

小学2年生の時に友人らと写真に写る須能さん(中央)。運動は何でもできる活発な子どもだったという
小学校の修学旅行で日光東照宮に行った須能さんら

 1943年6月、水戸市に生まれた須能さん。幼少期をどんな環境で過ごしたのか。小学生の頃の思い出、現代の食生活との違い、中学、高校の学校行事や部活の取り組みなど、東京水産大(現東京海洋大)に入るまでの歩みをたどる。

   ◇

 私が生まれた頃の水戸市は、麦や野菜などの畑が多い自然豊かな場所だった。小学生の時は、体が大きく、1年生のころから既に3、4年生ぐらいの体格があった。6年生の時に、県から健康優良児に選ばれるぐらいだった。

 運動は何でもできるようなタイプで、勉強の成績もそれなりだったが、漫画も含めて本読みは好きではなく、関心もなかった。授業で教科書を音読するのがやっと。今は言わないかもしれないが「ガキ大将」だった。

 遊びもテレビゲームなどがない時代。外で遊ぶのが当たり前で、自宅近くの山に行き、友達とチャンバラごっこをやったり、追いかけっこをしたりした。

 当時は車がそこまで普及しておらず、広い通りで野球ができた。小人数で遊べる三角野球が堂々とやれる。車が来ても、通り過ぎるのを待っていればいい。それぐらい、のどかな地域だった。

 学校は先生が宿直する時代。新任の先生だったか、自分をかわいがってくれる人がおり「泊まりに来いよ」と声をかけられた際は一度帰宅して、また学校へ。用務員さんが炊いてくれたご飯を食べた。

 それから、学校の近くに住む同学年の友人らも来て、トランプなどで遊ぶ。友人は午後8時か9時ごろに親が迎えに来るので帰るが、私と先生は残って見回りしてから、寝て、翌日朝ご飯を食べて、授業に出るなんてこともあった。

 学校行事の一つに修学旅行もあった。行き先は栃木県。日光東照宮に日帰りだった。学校から電車で東京の上野に向かい、そこからバスで移動。バスの中でみんなが好きな歌を歌うのが当たり前の光景だったのを覚えている。

 食べ物も、今ほど豊かといえるものではなかった。それでも、食卓には魚があった。夏はカツオの刺し身、秋のサンマなど大衆魚はよく食べた。一年を通じて塩引きのサケやマスもあり、ホッケは現在売られている値段よりも安かった記憶がある。

 水戸といえば納豆も食卓にあるのが当たり前だった。朝、豆腐売りのような感じで納豆を売りに来る人がいた。自宅で作ることができ、大豆を麦で囲って温室に置けば自然とできた。ただ、商売人のようにうまくできず、あまりネバネバとしない。

 卵なんて貴重品。毎日食べるものではなく、家族が多いところは2人で1個なんてこともある。鶏を飼っている家庭も多く、スーパーもない時代だったので、卵を産むかどうかはとても重要なことだった。

 私の家は6人兄姉で先に起きてきた人から食べるのが決まりだった。そのため、今日は誰とペアになりそうかなどを考えていた。特に一番上の兄は父親のような存在で怖かった。他の兄姉もだが、早い者勝ちのため、末っ子の私に譲るというのはあまりなかった。

 兄姉と両親も入れると、納豆も希少品になってしまう。少しでも腹を満たすため切り干し大根を刻んで入れたりする。食事はご飯とみそ汁と納豆で済ますというのが普通だった。

 ごちそうと呼ばれるものを挙げるとすれば「すき焼き」。これも今の時代と大きく変わらないだろう。ただ、家で飼っていた鶏を食べることもあるので、肉は牛とかではなく鶏肉。この点は牛や豚も高級品とされた昔の特徴かもしれない。

 カレーでいうと、肉が高価なものだったので今の言い方だとシーフードに近い。イカが安く売られていたのでイカのぶつ切りが入ったカレーが多かった。

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