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能登半島地震半年・本紙記者ルポ > 支援のバトン 石巻地方のボランティア、被災地つなぐ

被災家屋で倒れたブロック塀の撤去に汗を流す石巻地方のボランティア=6月29日、志賀町
支援先の住民と交流するボランティア。大災害の経験者同士で心を通わせた

 能登半島地震の発生から半年がたった石川県志賀町で、石巻地方2市1町の社会福祉協議会がボランティアに取り組んだ。初めて企画したバスツアーに約20人が参加。東日本大震災を経験した参加者たちは現地の被災者に寄り添いながら、家屋の片付けなどに汗を流した。記者が同行し、支援のバトンでつながる二つの被災地の住民を取材した。(漢人薫平)

   ◇

 6月29日午前7時、バスは前泊地の金沢市から志賀町に向かって出発した。車内は20~70代の参加者23人でほぼ満員。「支援してあげるのではなく、させてもらう気持ちで取り組みましょう」。作業に加わる社協職員の呼びかけに、参加者たちがうなずいた。

■もどかしさ募る

 志賀町は元日の地震で最大震度7を観測。全壊551棟を含め7378棟が被災した。被害の大きかった富来地区にある町ボランティアセンターに到着した一行は、3グループに分かれて軽トラックに乗り込み、それぞれ振り分けられた支援現場を目指した。

 石巻市雄勝町の横江良伸さん(62)ら9人は、子どもと孫の3人で暮らす高齢女性宅に向かった。落下した屋根瓦を自力で集めた跡はあったが、まだ周りに散乱していた。横江さんは瓦を拾い集めながら思った。「震災のときと比べて復旧が遅過ぎる。もっと早く来てあげたかった」

 雄勝町立浜地区で漁業を営む。震災では自宅が津波に流された。地区には多くのボランティアが継続的に訪れ、震災発生から半年ごろには、ホタテ養殖を徐々に再開できた。支援者の車両が行き交い、土煙が絶えず上がっていた石巻の景色は、いまだ記憶に新しい。

 志賀町の風景は対照的に映った。瓦を軽トラックに積んで災害ごみの仮置き場に向かう道中、復旧支援らしい車はほとんど見かけなかった。女性は家の周りがが片付いて喜んでいたが、横江さんは「震災でお世話になった側として、もどかしい。また支援に来たい」と再訪を誓った。

■一人では不可能

 「屋根にブルーシートがかぶせてあったり、崩れたままだったりする家を何軒も見た。復旧はまだまだだ」。最年少の参加者で、石巻市雄勝総合支所に勤める大山航平さん(25)は実感した。

 震災時は市開北小5年生。自宅周辺は津波で浸水し、避難した市内の祖母宅でも断水に悩まされた。近くに開設された給水所で支援のありがたみを知った。

 志賀町では町中心部に近い山間部の民家で、倒れたブロック塀の運び出しを担当した。同日の最高気温は28.4度。日なたでは立っているだけで大粒の汗が噴き出す。15分ごとの休憩は欠かせなかった。現場から仮置き場までは車で片道30分。軽トラ4台で2往復して全てのブロックを運んだが、滞在できる時間を全て費やした。

 「被災した方やその家族だけではもちろん、ボランティアも一人でできる作業ではなかった」と大山さん。「他の参加者とのつながりを大事にして、今後も継続的に支援していきたい」と力を込めた。

■可能性 誰にでも

 作業を見守った家主の板倉恵子さん(73)は「震災で大変だった皆さんなのに、遠い所から来てくれてありがとう」と涙を流した。築52年の自宅は地震で屋根瓦がずれ、ブルーシートで雨漏りを防いでいる。業者に修理を頼んだが、100件以上の依頼を抱えており、年内に修理できればいい方だという。

 息子の賀津広(かづひろ)さん(50)は「自分が被災して初めて災害の大変さ、支援のありがたさが分かった。次の災害では支援する側に回りたいと強く思った」と語った。

 石巻市社協の小松沙織さん(42)は「誰もが支援する側、される側になる可能性があることを実感した」と言う。30日、一行はバスで石巻市に戻った。小松さんは車内で参加者に語りかけた。「皆さんと一緒に、誰かを思う気持ちのリレーができてうれしい」

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