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古里とジブリ、縁つなぐ 石巻市出身・生出朋弘さん急逝 2021年の展示会に貢献

石巻展の開催を発表した記者会見。実現に尽力した生出さん(右から2人目)も出席した
石巻展の会場。新型コロナウイルス下、3カ月ほどの会期で約3万4000人が訪れた
お別れ会の会場の一角。生出さんが手がけたグッズや展示物が数多く飾られた

 石巻市開成のマルホンまきあーとテラス(市複合文化施設)の開館記念事業として2021年に開かれた「アニメージュとジブリ展 みやぎ石巻展」。その実現に貢献した石巻市出身の会社経営者、生出朋弘さんが5月末、60歳で急逝した。アニメや映画関連のイベント企画、グッズ開発などで多くの実績と人脈を築き、東日本大震災で被災した古里の活性化にも心を砕いていた。(保科暁史)

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 生出さんは石巻中、石巻商高卒。東海大卒業後、米フロリダ州のディズニーワールドで働きながら学ぶ研修制度に参加した。帰国後、20代半ばで独立し、31歳で「ニュートラルコーポレーション」(東京)を創業。スタジオジブリとウォルト・ディズニー・ジャパンという世界的なエンタメ企業をはじめ、各種メディア、百貨店など数多くの大手企業に取引先を広げた。

 「15歳で出会った時から周りとは少し違うなと思っていた。『石巻には戻らない。東京で勝負する』とよく言っていた」。高校の同級生で、45年来の親友だった奥山浩幸市議は振り返る。「でも、成功したら『古里のために何かしたい』とも話していた」

■自社で手がける

 石巻市とジブリの縁をつないだのが生出さんだった。15年、ジブリが展示物の保管場所に困っている話を市と同市中瀬の石ノ森萬画館に相談し、市内の施設で引き受けた。萬画館の企画展に使うことをジブリが認め、15~16年の特別展「この男がジブリを支えた。近藤喜文展」につながった。

 「アニメージュとジブリ展 みやぎ石巻展」の実現の裏にも生出さんの熱意があった。企画からプロデュース、商品化までを自社で手がけた巡回展。石巻は東京・銀座に続く全国2カ所目に選ばれた。生出さんがジブリに思いを伝えて内諾を得て、主催企業の協力も取り付けた。

 萬画館を運営する「街づくりまんぼう」の木村仁社長は「ジブリからの信頼があった。生出さんがいなければ実現しなかった」と語る。当時、市観光課長で石巻展に携わった五十嵐秀彦市民生活部長は「自治体だけで関係をつくるのは難しい。生出さんの力があったからこそだ」と感謝する。

 石巻展は街全体に舞台を広げた。地域の飲食店はジブリ作品とのコラボメニューを提供し、JR仙石線の車両内には雑誌「アニメージュ」の歴代表紙を掲示。街中には観覧した小学生の感想絵画も展示した。生出さんはジブリなどとの調整に奔走した。

 「ジブリが『うれしかった』と言って、大きな成功事例として評価してくれた」(木村社長)。地域を巻き込む方式は、現在も続く巡回展で各地に採用された。

 仕事には厳しかった。生出さんの提案で石巻展の会場運営は外注せず、街づくりまんぼうが担った。企画や展示の内容は細部まで手を抜かず、地元企業に協賛依頼の営業をかけることも指示した。木村社長は「会社として貴重な経験を蓄積できた。やりたいことを実現するため、可能性を追求する姿勢を教えてもらった」と話す。

■お別れ会に1000人

 仕事で世界を飛び回っていた生出さんは、出張先の米ラスベガスで倒れ、5月28日に亡くなった。7月23日に東京会館で開かれたお別れ会には1000人以上の業界関係者が集まった。

 木村社長とは新たな事業の構想をいくつも温めていた。その一つが、萬画館で企画した展覧会を全国、海外に巡回させることだった。7月25日に岡山市で始まった「パンダコパンダ展」は、その第1弾になった。

 木村社長は「4月にも東京で会い、一緒にいろいろやろうと話していた。石巻だけでなく業界にとっても大きな損失だ」と惜しむ。

 生出さんの古里への思いは、震災後により強くなっていたという。その思いを聞き続けてきた奥山市議は「石巻にとっての宝を失った」としのび、「もっと古里に貢献したかったと思う。彼が残してくれたものを受け継ぎ、生かしていきたい」と語った。

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