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震災経験を共有、絆深める 県高野連が能登の高校球児招待 石巻で交流試合

 県高野連は能登半島地震で被災した石川県の高校球児を石巻市に招待し3、4日、両県の3年生による交流試合を石巻市民球場で行った。石川県高野連とはかねて復興支援や防災教育を通して交流があり、東日本大震災時に受けた支援に恩返しをしようと招待し、4日は仙台六大学野球の選抜チームも交流試合に加わった。選手らは野球を通して互いの技術を高め合うとともに、震災から学んだことを共有していた。

好プレーに笑顔を見せる奥能登選抜の選手たち=3日、石巻市民球場

 石巻を訪れたのは、奥能登地方にある輪島、能登、門前、飯田、穴水の5校から選ばれた計22人。県高野連の66校から選ばれた22人を含め、それぞれ自校のユニホームで試合に臨んだ。

 試合では、宮城選抜が2-0と先行し迎えた二回裏、石堂(石巻工)が右中間に2点三塁打を放つなど計6得点を挙げ、リードを広げた。奥能登選抜も四回表、中尾(能登)の左越え二塁打などで2点を返したが、その後も着実に加点した宮城選抜が12-2で勝利を収めた。

 選手らは勝ち負けとは別に、好プレーが出ると互いに笑顔でベンチから拍手を送り合うなど、試合そのものを楽しんでいた。

 試合後は石巻市震災遺構大川小を訪れ、語り部の震災体験談に耳を傾けた。市河北総合センターでの交流会では、震災当時ともに高校1年で野球部員だった阿部翔人さん(石巻工卒)と佐藤光也さん(石巻商卒)が当時の経験を語った。

 阿部さんは、津波で浸水した当時のグラウンドの写真を示し「野球道具は数球のボールと数本のバッドしか残らなかった」と語った。自衛隊がグラウンドの泥を取り除くなどして、震災1カ月後に練習再開にこぎ着けた経験を振り返り「野球も普段の生活と同じように、いろいろな人に支えられている。困った仲間がいたら助けてほしい」と力を呼び掛けた。

 佐藤さんは「能登の皆さんも地震の前後では、災害に対する捉え方が変わったと思う。経験したことを次世代に還元してほしい」と述べた。その後は両県の選手がそれぞれ方言や食べ物、学校生活の様子などの話題で自由に話し合い、高校生らしい笑顔で交流を楽しんでいた。

 千葉虎太朗さん(石巻)は「(奥能登の球児と)今後会う機会は少ないかもしれないが、大学や社会人になっても互いに切磋琢磨(せっさたくま)できればうれしい」。震災で母を亡くした経験から、防災教育の大切さも伝えた。「(震災では)助かる命もあった。小さい時から津波から逃げる知識を教えていくことが大切だ」と強調した。

 両チームの選手らは4日、仙台六大学野球の1年生選抜チーム30人とも交流試合を行った。

それぞれの学校生活や地域の話題を話し合い交流を深める宮城選抜(左)と奥能登選抜(右)の選手ら=3日、石巻市河北総合センター

輪島高・平 匠さん、支援への感謝語る

 能登半島地震で最も被害の大きかった石川県奥能登地方。地震の爪跡が残る中、球児らは甲子園を目指し、厳しい環境下でもひたむきに練習に励んだ。宮城県高野連の招待で交流試合に参加した平匠(ひらたくみ)さん(輪島)が、経験と支援に対する感謝を語った。

 「部員の中には輪島の火災で、家や大切なグローブが全て燃えてしまった人もいた。それでも野球が人と人をつないでくれた」。試合後の交流会で、平さんはそう語った。

 輪島市河原田地区出身。自宅に被害はなかったが、裏山が崩れる恐れがあったため、車中や保育所、小学校などで約1カ月半の避難生活を送った。

 学校の校舎は傾き、グラウンドは自衛隊の活動拠点に。思うように練習ができない中、部員らは復興を手助けしようとボランティアを始めた。家財の運び出しやがれきの撤去作業を手伝い続けた。

 2月初旬、顧問教諭が練習場所を確保し、トレーニングを再開。被害が少なかった学校の施設を借り、練習に打ち込んだ。春季大会を控えた3月下旬には、宮城の強豪・仙台育英から招待試合の申し出があった。輪島と飯田両校の選手が仙台市を訪れ、2泊3日の合同練習や試合を行った。

 輪島は、春季大会は3回戦、夏の大会は初戦でそれぞれ敗退した。3年生の夏は終わったが、夏の宮城県大会決勝には仙台育英の応援に駆け付け、ナインの勇姿を見届けた。平さんは「野球がつないでくれた縁を大事にしながら、(今後も競技を続けて)日本の野球を盛り上げていきたい」と力を込めた。

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