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元石巻商監督・水沼さんに育成功労賞 日本高野連、あす甲子園球場で表彰

東北生文大高監督時代に部員を指導する水沼さん(中)=本人提供

 日本高校野球連盟などが高校野球の発展と選手の育成に尽力した指導者に贈る本年度育成功労賞に、石巻商や仙台商など県内4校で約30年にわたり監督を歴任した水沼武晴さん(62)=仙台市泉区=が選ばれた。石巻商時代には東日本大震災を経験。被災地の球児を東北大会出場に導いた。15日、全国高校野球選手権大会が開かれている甲子園球場で表彰を受ける。(相沢春花)

秋季県大会の3位決定戦に勝ち、2度目の東北大会出場を決めた石巻商ナイン。選抜大会の21世紀枠候補にも選ばれた=2012年9月

 水沼さんは塩釜市出身で、小学2年の時に野球を始めた。高校は仙台商に進学し、3年夏には投手として県大会決勝まで進んだが、甲子園には一歩届かなかった。

■夢求め28歳で教員

 卒業後は日本石油(現ENEOS)に就職し、野球人生に区切りを付けた。3年がたった1983年、母校の仙台商が甲子園出場を決めた。夢の舞台で活躍する後輩の姿に「もう一度野球がしたい」と胸を熱くした。指導者を目指すため退職し、24歳で東北学院大夜間部に入学。青果店や福祉施設などで働きながら通学し、28歳で教員になった。

 石巻商の監督は2007年から14年まで勤めた。赴任当時の部員たちは学校生活に落ち着きがなかった。「野球はうまいのに勝てないチームだった」

 グラウンドの草むしりから始めた。部員たちに目標を立てさせ「やれば変われる」と背中を押した。野球に向き合う姿勢が変わり、試合で実力を出せる精神力が備わった。09年には初の東北大会出場を果たした。

■練習さなかに激震

 11年3月11日は春休み中で、午後から校庭で練習をしていた。投球練習を見ていた時、立っていられないほどの揺れに襲われた。液状化で地面が割れ、水が吹き出した。約1時間後、北上川を遡上(そじょう)してきた津波が大きな音を立てて水門を破壊し、校舎へと押し寄せた。水は1階から2階に迫り、部員らと3階へ逃れた。

 2日後、部員たちが「自宅を見に行きたい」と言った。校長に許可をもらい送り出した。津波で家は流され、家族とも会えない子どもが多く、涙を流して帰ってきた。

 部員は1人も欠けなかったが、学校は約300人が身を寄せる避難所になり、練習ができる状態ではなかった。部員たちは泥かきやがれき撤去のボランティアに出かけるようになった。「早朝にねじりはちまきを巻いて、自転車で街に向かう背中は立派だった」

 学校は5月上旬に再開した。隣地ではがれきが校舎と同じ高さに積み上がり、悪臭が立ちこめていた。部員たちはマスク姿で練習に打ち込んだ。

■選抜大会2度迫る

 その年の秋季県大会。準々決勝で強豪仙台育英を3-2で破った。東北大会出場を懸けた準決勝の相手は石巻工。ともに被災地から立ち上がった選手たちは接戦を繰り広げ、1-3で敗れた。

 石巻工は21世紀枠に選ばれ、12年の選抜高校野球大会に出場した。「どちらが勝ってもおかしくなかった。悔しく、次は自分たちがという気持ちだった」。石巻商は12年秋の秋季県大会で3位になり、2度目の東北大会に進んだ。21世紀枠の候補にも選ばれたが、選抜出場はかなわなかった。

 14年からは東北生活文化大高の監督に。22年に退任後は副校長を務める傍ら、学校の目の前に一軒家を借り、遠方の部員を下宿させている。現在は県内外の6人と暮らし、1日3食を作るなど生活の面倒を見る。野球部の指導は仙台商と石巻商時代の教え子に託した。

 水沼さんは「高校野球は諦めない姿に魅力がある。一緒に野球ができた時間は幸せだった」と振り返る。「試合には思い通りにならない、耐えなければいけない場面がある。乗り越えるには地道な努力が要る。高校野球は人生の縮図だ」

 表彰式は15日、甲子園球場のグラウンドである。「私の指導についてきてくれた選手たちのおかげ」と感謝する一方、野球人としての悔しさもにじませた。「甲子園の舞台には、監督として教え子たちを連れて立ちたかった」

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