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「3.20」の救出、3者の視点で 震災振り返り、討論 石巻・津波伝承館

震災当時の体験や考えを語り合った(左から)阿部さん、佐藤さん、竹内さん
阿部さんと祖母寿美さんの救出を伝えた石巻かほくの紙面

 東日本大震災の発生9日後に石巻市内で起き「奇跡」と報じられた救出劇について当事者らが語り合うイベントが、同市のみやぎ東日本大震災津波伝承館であった。救助された同市の阿部任さん(30)と当時の県警幹部、取材した記者が登壇。3者の視点から「3.20」を振り返り、互いの考えなどを討論した。(漢人薫平)

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 阿部さんは当時仙台市の高校生で、石巻市門脇町2丁目の実家に帰省中だった。祖母の寿美さん=当時(80)=と在宅中に被災し、家ごと津波で200メートル近く流された。発見されるまで冷蔵庫のわずかな食料と水で生き延び、発災から約217時間後の救出は「奇跡」と大きく報じられた。

■バッシング不安

 イベントで阿部さんは当時を回顧しながら、報道内容と自身の避難行動に「ギャップ」があったと述べた。救助の最中は大勢の救急隊員らに加え、報道陣にも囲まれた。「家の裏には山があったし、祖母を安全に避難させることもできたはず。多くの人に迷惑をかけ、バッシングを受けるのではないかと思った」

 不安に反して、人々の反応は好意的だった。「勇気をもらった」などと記された多くの手紙が病室に届いた。阿部さんは「本来は逃げた人がヒーローになるべきだ。自分の失敗が棚に上げられて褒められるのは苦しかった」と打ち明けた。

■奇跡だけでなく

 記者として現場に立ち会った河北新報社の佐藤崇編集部長(55)も取材時を振り返った。救助翌日の河北新報では「暗闇 奇跡の光差す」との大きな見出しで一部始終を伝えた。

 佐藤編集部長は「発災直後の厳しい取材が続く中で、一筋の光に照らされるような出来事だった。奇跡という言葉が自然と浮かんだ」と説明。阿部さんの苦悩を受け、「読者の目に留まるようにと表現した一方で、救助までの経緯や原因を押し込めてしまった側面もある」と語った。

 消防と共に救助に当たった県警の本部長だった竹内直人さん(67)は、発災直後の不明者捜索の状況などを解説した。9日目の時点で5244人の遺体を収容する事態に直面しており「真っ暗闇の中に光が差し、もうひと頑張りしようと誓いを新たにできた出来事だった」と話した。

 イベントは市内の公益社団法人3.11メモリアルネットワークが開くイベント「3.11トークセッション」の一環として、9月22日に開かれた。阿部さんは同法人で語り部として活動し、自身の避難行動を教訓として発信している。2人の発表を聞き「当時のことを初めて多面的に振り返ることができた。今後は救助者や報道も含め、関わった多くの方の思いを伝えていきたい」と力を込めた。

石巻かほく記者の3.20

 13年前の3月20日、三陸河北新報社で警察担当だった相沢美紀子記者(44)は阿部任さんの救助に関する取材に当たり、偶然出会った阿部さんの家族を搬送先まで連れて行った。

 阿部さんが救助された20日の夕方、相沢記者は石巻市門脇町で生存者が発見されたとの知らせを聞き、石巻署に向かった。署には10社近い報道陣が駆け付けていた。やがて2人の氏名や、搬送先が石巻赤十字病院ということが分かった。

 署内のソファで不安そうにたたずむ女性が気にかかった。聞くと、阿部さんの叔母だった。「おいが発見されたということしか知らない」という。

 東日本大震災直後の混乱期。記事にしたいという焦りと、一刻も早く引き会わせてあげたい思い。「病院へ車で一緒に行きましょう」と提案した。

 母敦子さん=当時(50)=と兄道さん=当時(22)=を病院に送った。阿部さんと寿美さんは家の中にいて無事だと伝えた。敦子さんはうれし涙をこぼした。道さんも安堵した様子だった。

第2回 3.11トークセッション、9/22開催「9日後の救出、それぞれの”3.20”」 - 3.11メモリアルネットワーク

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