滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(5) 漁場図や展開図、作成に苦労
1975年、5年間乗船したサケ・マスの調査船から母船に異動した。これまで調査員として水揚げされる魚の数や種類の把握、周辺の水質検査が主な仕事だったが、操業場所を指示する役割に変わる。「地洋丸」という船に乗ることになり、体よりも頭を使うことがメインになった。
操業する5~8月のベーリング海は天候に恵まれ、しけで漁ができないことはほぼない。移動日以外は基本的に休みはなかった。
仕事が始まるのは夜中の1時ごろからだったと思う。多くの調査船が漁獲結果などを書いたデータ(暗号)を送ってくる。それを解読、整理して、畳半分ほどの紙に起こすことで、漁場図という地図を作成する。
次に展開図という調査船ごとの操業エリア(配置)などを記した図を作り、各船に伝える。大洋漁業(現マルハニチロ)、日本水産(現ニッスイ)、日魯漁業(現マルハニチロ)が、1カ月ごとに当番制で担当した。
図面には各社の関連会社が出している船も加えないといけない。その日だけでなく、あした、あさってのことも考えながらの仕事のため、囲碁や将棋のように、常に先を読む力が求められる。碁などをしない私には苦労する作業だった。
漁場図については前日の図面を更新していく。その際に過去の図面と照らし合わせることで、海水温の変化やサケ・マスの動きの傾向が分かるようになり、操業の参考にする。
ただ、過去のデータが膨大なのに、紙でしか保存されていない。めくるのが面倒で作業時に不便さを感じていた。
私はデータの保存や管理をマイクロフィルムでやっている企業があることを知っていたので、すぐに導入し、蓄積していた紙のデータを確認しやすくした。
ほかには、水温の平均値や部分事にどれくらい変化しているのかもまとめた。私の卒業後、東京水産大(現東京海洋大)に膨大なデータが処理できるコンピューターが導入されていたので協力をお願いした。
この時代のコンピューターは入力作業にパンチカードを必要としたため、大洋漁業の社員が毎日交代で大学に行った。入力したものは大学関係者と一緒にプログラムにする。当時、神奈川に住んでいた私は自宅に帰る前に取り組んだ。
母船に乗り始めたころ、漁場図の作成は先輩がやっていた。私は先輩がすぐに仕事が始められるように印字機で来る情報を解読することが多かった。ゆくゆくは図面の作成を任されるようになるのだが、時間を割いて教わるというより、目で見て覚えたと思う。
仕事終わりの楽しみは母船内のサロンで行う飲み会。年齢が近い人で集まることが多かった。高級なウイスキーを水割りで飲み、調査船がマグロ漁をしていると、冷凍マグロをつまみでくれることもある。私の誕生日に合わせて、差し入れをくれる人もいた。
会議の報告書を作ることもあったが、苦手だった。出てきた内容を全て盛り込もうとしたり、文章をうまく書けなかったりと悩んでしまい、手書きだったことも重なって時間がかかった。そこも他の人が執筆したものを参考にした。
その後、書く側からチェックする立場になった時に「写真を撮っておけば説明が楽になる」「子どもに今日あったことを教えるイメージでやるといい」などと教えられるようにした。
根気強く取り組んだり、要約や書きたいものをピックアップしたりといったことを覚えなかったら、今の年齢で地域誌「石巻学」の発行などに関わることはなかっただろう。学生時代に国語の勉強はしっかりすべきだったと感じている。
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