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滔々と 私の大河 > 須能邦雄さん 第4部「大洋漁業」時代編(4) 母船に移り、調査船の経験活用

北海道からベーリング海に向かう母船の出港風景=1975年ごろ
1975年からサケ・マス漁の母船に乗った須能さん。長い調査船員の経験が生きたという

 サケ・マスの調査船に乗っていた5年間(1970~74年)は、後に母船に移って仕事をする上でとてもいい経験になった。母船は主に調査船に対し、向かう漁場を指示する、調査船は普段は各地で底引き網、サンマ、マグロはえ縄漁をしている。さまざまな地域の漁業者の人間性を知ることができたからこそ、的確な指示が出せるようになったのではないかと思う。

 底引きは北海道と青森の船だった。北海道の船員は言葉遣いや雰囲気が私の出身地の茨城に近いと感じた。マグロ船は宮城の船で、普段の漁が長期航海のためか、みんな辛抱強い印象を受けた。

 その中でも印象に残っているのはサンマ漁をする福島の船。頻繁に水揚げをするため、長期で海上にはいない。10日連続の操業になじみがないようで、こまめに休養日を入れようとした。ちょっとしたしけを理由に漁を休もうとすることも珍しくなかった。

 サケ・マスの調査船員は、漁期を終えたトロール船の船員の中で、航海士の資格を持つ人が務めることが多かった。サケ・マスの漁期(5~8月)を終えるとトロール部に戻るため、新たな調査員に経験を伝える人がいなかった。

 そもそも1、2年程度で変わるのが当たり前だったので、しっかりとした教育は必要とされていなかったかもしれない。通算で5年も調査船に乗る人はまずいなかった。漁に向かう前の講習会で私が調査船の役割や経験、心構えを教え、漁労長ら幹部にはサポートをお願いしたこともある。

 1970年ごろは大洋漁業が新規事業を始めていた時期で、サケ・マスを捕らない冬季(10月~3月)にベーリング海でカレイ漁をすることになった。

 サケ・マスのシーズンが終わって、じっとしているのが苦手な私は71年と73年に乗船し、ベーリング海とオホーツク海をそれぞれ航海した。その後の話だが、カレイ漁はうまくいかず、事業は長く続かなかった。

 将来のために知識を深めたいと考えていたので、新規事業以外にも網の改良や無線の勉強なども積極的に行った。

 網は魚が見えるような色だと、魚が避けて回遊するため、海中の色と同じにする必要がある。当時は水産大の研究施設が千葉の館山にあり、網会社や大学などと連携しながら泊まり込みで研究に没頭した。水深が浅いところは水色のような色、深くなった時はチョコレートのような色がいいのではないかなどと考えていた。

 漁業用のラジオブイについてもアイデアがあり、音波以外にも光を出せるようにしたいと思っていた。こちらも研究を進めていたものの、実用化には至らなかった。

 漁業に関すること以外にも学んでいたことがある。英会話だ。会社の補助でレッスンが安く受けられたのだが、受講したのにはきっかけがあった。

 サケ・マス課に移ったばかりで船員の身分だったころ、事務所で働く社員が春闘でストライキをした時にだけ、事務所勤務をお願いされる日があった。

 その出勤日にアラスカから電話があった。うまく返事をできずにいると、大学の相撲部の先輩で私を大洋漁業に誘ってくれた専務がすらすらと会話して対応した。

 その姿を見て「偉くなるには自分にも必要だ」と感じ、神田にある英会話のスクールに通うようになった。1970年ごろからだった記憶がある。相撲をしていた縁がここでも生きたのは良かったと思う。

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