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もう一人のフランク安田(2) 阿部敬介との出会い 同郷の先輩、一緒に渡米

石巻市日和山にある「海門寺跡」の看板
日本郵船歴史博物館(ホームページより)

【元石巻・湊小校長 遠藤光行】

 小説『アラスカ物語』では安田恭輔(後のフランク安田)は子どもの頃、祖父と訪問した近所の石原田家の孫娘千代に淡い恋心を抱いていたとあります。

 18歳の時、石巻に帰省し、恭輔は千代と連れ立ち「三日三晩」ぶっ通し行われている海門寺の盆踊りを覗(のぞ)き、その後、日和山で海を眺めながらも自分の思いを伝えられなった青春が描かれています。

 間もなく千代が婿を迎えたことで、石巻に心のよりどころのなくなった恭輔は三菱汽船が募集した外国航路見習船員の試験を受け、石巻を離れたのでした。

■神官職家の長男

 一方、阿部敬介は利府町加瀬(かせ)で代々塩釜神社の神官職を務めてきた阿部家の長男として誕生しました。阿部家は利府街道から分かれた道が塩釜神社や塩釜港に向かう道筋にありました。そのことから、『阿部敬介小伝』を自費出版した宇土康宣(うどやすのり)さんは後年敬介が千島や北海道へトナカイ移入にこだわった背景を次のように推察します。

 「戊辰(ぼしん)戦争に敗れ、北海道行きを決断した亘理の伊達邦成(くにしげ)一行が塩釜港から旅立っている。その時、家の前を黙々と歩いて行く忍びない姿を敬介は父とともに見送った可能性がある。その光景を、阿部は終生忘れられなかったのではないか」と、宇土さんは語ります。

 阿部は15歳のとき県立語学校に入学して英語を学び、17歳で帝国大学(現東京大)予備科に進学、その後本科医学部に編入し、医者を目指したものの病気を発症して退学。回復後再び上京し新橋・横浜鉄道局に就職。向学心の強い阿部はより高度な鉄道知識習得を目指して渡米を決意し、1886(明治19)年、石巻の荻浜港から米サンフランシスコを目指して船に乗り込んだのでした。

 小説では恭輔は米国航路に2年乗った後、サンフランシスコで下船したとありますが「この船中で阿部と出会い、4歳年下の恭輔が頼み込んで一緒に下船したようだ」と宇土さんは推測します。その根拠として東良三著『アラスカ 最後のフロンティア』の次の一文を挙げています。

 「私は大正四年十月初旬、船でアラスカを訪れた際ポイント・バローで越冬することになり、フランク安田と出会った。このとき彼は『自分は宮城県石巻市出身で、十九歳のとき同郷の先輩に伴われて米国に渡り、その後監視船のキッチンボーイとなってポイント・バローに来た』と話してくれた」(一部を引用)

■横浜発の米国船

 この時期、フランクは既に移住していたはずなので、この話はまた聞きの可能性が高いと考えますが、2人が船中で出会う可能性はあったのでしょうか。

 横浜の「日本郵船歴史博物館」に問い合わせると、三菱汽船は合併して「日本郵船」となっていましたが、明治19年頃はまだ米国航路はありませんでした。「阿部は石巻から横浜へ行き、そこから米国の貨客船に乗ったのではないか。フランク安田がこの時期に米国航路に乗船していたのであれば2人の船は同じだった可能性はある」とのこと。

 宇土さんの推測は妥当であり、恭輔は船中で出会った利府町出身の阿部に伴われてサンフランシスコで下船したと考えられるのです。

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