もう一人のフランク安田(5) 阿部敬介の夢 トナカイ移入、心血注ぐ

【元石巻・湊小校長 遠藤光行】
1895(明治28)年2月、再び米国サンフランシスコに戻った阿部敬介は5月に米監視船ベアー号でアラスカ「ポイント・バロー」を訪れたのですが、フランク安田とは会えませんでした。言葉を覚え、狩猟技術を会得しエスキモー(イヌイット)社会になじんでいったフランクでしたが、クジラ漁の不漁の原因を背負わされ、村を追い出されたのでした。フランクは慕ってくれるエスキモーの娘ネビロと一緒に離れた場所で暮らしており、4度目の出会いはなかったのです。
■35歳無念の死去
サンフランシスコに戻った阿部は、ジャクソン博士からトナカイ移入が順調であると聞きました。今や国の援助で移入事業が順調に進み、増殖によって先住民の飢餓が解消に向かっている。博士の話を聞いた阿部は、この事業の有用性を確信し、自分も千島列島や北海道にトナカイを移入させようと心を固めたのです。
阿部は、早速博士に頼んでトナカイ移入を担当する部局に異動させてもらい、次年度の買い付けに向かう米国隊の一員としてシベリア探検の準備を進めました。ところが出発を間近にした97年5月、再び持病を発症し、やむを得ず帰国しました。日本で療養し、翌年2月、何としても夢を実現させるために3度目の渡米。固い決意の下、サンフランシスコで探検の準備を進めましたが5月24日、とうとう肺疾患のため阿部の夢は病魔に断たれたのでした。35歳でした。
阿部は探検の準備をしながら東京地学協会に論文を投稿していたのです。「魯(ロシア)領スベリア(シベリア)産馴鹿(トナカイ)を我千島に移植するの必要を論ず」の論文は97年2月号の「会報誌」に掲載されました。
「極寒の千島に入植した者は衣食住に困る事態となります。米国では、アラスカにロシアからトナカイを移入し、これを増殖する事業に取り組み成果を挙げています。トナカイは労働力にもなり、肉は食料となり、毛皮は衣服・靴・寝具など多様に活用可能です。自分はこのたび米国政府の調査隊員として現地の状況を把握してくるので、日本政府が同様の事業を検討する意向があるなら情報を提供したいと考えます」(著者要約)
「阿部がトナカイにこだわったのは、父と見送ったあの日の光景であり、北海道にトナカイが駆け巡る夢を描いていたのかも…」と、「阿部敬介小伝」を出版した宇土康宣(うどやすのり)さんは語ってくれました。(この提言とは関係ありませんが、現在北海道の幌延(ほろのべ)町では二つのトナカイ牧場が運営されています)
■村のリーダーに
一方、フランクを追放した後もポイント・バローは不漁が続いたことから2人は村に呼び戻されました。それどころか今度は逆にフランクは腕を見込まれて鯨組の組頭に担ぎ出されたのです。やがて、食料不足が続いていた村に「はしか」の流行という悲劇が襲い、人口500人のうちなんと120人もが亡くなり、フランク夫妻の幼い長女も犠牲になったのでした。
「この危機を救えるのはお前しかいない」と、フランクはついにリーダーとして頼られることとなり、妻のネビロからも強く後押しされたのです。村の行く末を託された35歳のフランクは「海がダメなら山しかない」と考えたものの、具体的な方策はなく、ただただ苦悩するばかりでした。
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