もう一人のフランク安田(4) 北氷洋探検 日本初、極北研究書著す
【元石巻・湊小校長 遠藤光行】
フランク安田と阿部敬介の2人は米国監視船ベアー号に一緒に乗っていたのですが、1年半後の1891(明治24)年の夏、阿部は艦長の命令で米アラスカ「ポイント・バロー」の避難所勤務となり下船したのです。
ポイント・バローは陸から突き出た砂嘴(さし)の突端にあり、付近の海ではクジラ船の遭難が多いため米国政府は避難所を設けたのです。阿部はその施設の管理と極北の気象観測が主な業務でした。
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ここで足掛け4年ほど勤務する中で向学心の強い阿部は、任務の気象観測の他に独自にアラスカの地勢、気候、風土、水産業の調査、さらにはエスキモー(イヌイット)の生活や狩猟、風俗や習慣、言語などについても詳しく調査し、克明に記録したのです。その詳細な記録が後に日本で高く評価されることになったのでした。
小説『アラスカ物語』ではフランクも艦長から信頼を得て、気象観測助手や事務長助手を担当したとあるので、下船した阿部の後を引き継いだのかもしれません。
運命は皮肉なもので、その職に就いていたためにベアー号が予期せぬ事態となって氷に閉じ込められた時、フランクは食料横流しの嫌疑をかけられ、危機的状況に追い込まれたのでした。身の危険を感じたフランクが、救援隊を手配するため氷原を歩いたコースを図に表すと、磁石の効かない極北での徒歩移動の難しさが伝わってきます。
■3度目の出会い
救援物資を届けた後、フランクはベアー号には戻らず、ここに留まる決意をし、アラスカ最北のエスキモー村に独り降り立ったのです。これがフランクの人生を決定づける岐路となったのでした。
しかし、『阿部敬介小伝』を自費出版した宇土康宣(うどやすのり)さんの調べによれば「フランクは独りで降り立ったのはなく、阿部が避難所にいたのだから、2人は3度目の出会いをしたはず」といいます。フランクが船に戻らずこの村に留まる決断をしたのは、阿部が滞在していたことが大きな要因の一つだったのかもしれないのです。
ところで、下船して命の危険はなくなったものの、フランクには大きな問題がありました。艦長の許可を取ったとはいえ自己都合での下船だったため、フランクには生活の保障がなかったのです。阿部の仕事や米国人ブロワーが営む交易所を手伝いながらも基本的にはエスキモー社会に溶け込んで自立するしか道はなかったのです。
■講演と執筆活動
一方、阿部はポイント・バローで足掛け4年ほど勤務し、1894年11月、休暇を取って帰国しました。その折、どのような経緯でつながったのか東京地学協会から声がかかり、東京で「北氷洋探検実況」の題で極地アラスカについて講演しました。
利府に戻ってからも師範学校や小学校などで講演したようですが、間もなく東京地学協会から「アラスカ見聞録」を出版したいとの依頼がありました。阿部は利府にいる間に原稿を書き、翌年2月東京で提出した後、再び渡米したのでした。
原稿はその年の秋『北氷洋洲及アラスカ沿海見聞録』の書名で出版され、大きな反響があったとのこと。極北の気象を克明に記録したこの著書は後に軍部や、昭和期の南極観測隊からも注目されたといわれています。阿部の著書は極北の地勢や気象、さらには原住民の生活や文化などを日本に初めて知らせた書物として評価されているのです。
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