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かつて あのまちは (3)石巻・南浜 人の距離感、心地よく 草島真人さん

自宅跡地に立つ草島さん。南浜地区一帯は祈念公園として整備され、町の面影を探すことは難しい
昭和時代の石巻市南浜地区。左奥には当時の石巻市女高や門脇小が見える=1988年(石巻市提供)

■草島真人さん(65)=石巻市あゆみ野4丁目=

 東日本大震災の17年前、南浜地区の雲雀野に古い家付きの土地を買いました。ローンを返し終わったのが2011年2月28日。息子が高校を卒業して、親の責任も果たしたかなと思ってた。自分と女房でお金を自由に使えると思うと、非常にいい感じだったんですけどね。

 石巻高のラグビー部時代、海沿いの雲雀野公園グラウンドで練習したことがあります。夜間照明があって、ボールが照明より高く上がると、ふっと消えるんです。見えなくなって。危険だなって思いながら練習した記憶があります。

 ロードでは日本製紙の脇や砂浜を走ってました。海の景色と日本製紙、あとは穏やかな街並みですね。海も穏やかですけど、きれいではないんです。当時は排水がきれいだとは言えなくて。監督は日本製紙の人だったんで、あんまり露骨には言わないけど。

 高校時代はまだ、戦後に建てられたような古い家が目立ってました。住み始めたころには、建て替えが進んでいましたね。

 「十条ショッピング」ってスーパーがあったんです。コンビニでは「ホットスパー」に行ってましたね。「東京屋食堂」でよく出前を取って。八間道路の両側にはすごくお店があった。聖人堀は遊歩道になって、住宅街だから人けのない所を通る心配もなく、子どもは安心して暮らせる場所だった。

 日和山に行けば、タヌキやハクビシンなどの動物もいる。海辺の岩場では、潮が引くと貝が張り付いてて。刃物で剥がして、焼いて。子どもに教えたら喜んでですね。スナメグリもいるんだよね。塩水につけておいても砂を吐かない。でも、みそ汁にするとすごくだしが出た。

 川と海と山が近くにあるっていうのは、子どもを育てるには非常に良かった。この辺りに住んでる人、みんな言ってましたね。

 海沿いにはテトラポッドがあったんですよ。うちの子は怒られたり嫌なことがあると、そこに隠れて1人で泣いてた。ちょっと危ないと思ったら迎えに行って、テトラポッドの間を探すと大体いる。それを俺が連れて帰ってきて。そんな生活が悪くなかったのかな。

 あと「コバルト」って床屋さんがあったんです。なじみの店で、「忙しくて営業中に行けないんだ」って言うと、「店開ける前においでよ」って感じ。暮らしの中のいろんな問題を、一つ一つ解決してくれる人がいた。

 やっぱり人との距離感がよかった。幼稚園だったら門脇保育所か、日和幼稚園に行くか。一回一緒になれば、小学校も中学校も同じですよね。すると親同士の距離も縮まって。私にとって、距離感のちょうどいい町だったんです。

 いろんな都合がいいから皆さん住まわれてたと思うんだけど。がっつり雪が降るわけじゃないし、すごい暑いわけでもない。もともと風もそんなに強くなかったんですよ。今強いのは、やっぱり土を盛ったからかな。土地が高くなったから。本当、津波さえ来なければ、石巻では一番住みやすい場所だったはずなのに。

 今住んでいる地域でも住民の1割は南浜の人かな。南浜の人同士なら何かあっても「言わなくても分かるじゃん」ってなるけど、それを他の地域から来た人に説明するのは難しい。住民同士で助け合ったり、見守り合ったりした方がいい思ってるけど、コミュニケーションの仕方は地域で全然違うんです。やっぱり、南浜にいたころのようにはいかないな。

【草島真人(くさじま・まさと)さん】 
 1959年10月東松島市矢本生まれ。89年に石巻市南浜町2丁目に移住。震災時は同市雲雀野1丁目に住み、家庭教師をしていた。津波で自宅が流出し、同市あゆみ野4丁目に移転。あゆみ野カーシェア会、あゆみ野公園愛護会で会長を務める。

(漢人薫平)

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