「仙台の城下町近くの村、遠くの村、山沿いの村に住んでいる人々は、手段に尽き果て、餓死者がおびただしい」
仙台に店を出していた近江商人中井家の「天保七申酉飢餓日記」に、1833(天保4)年の仙台藩内の様子が描かれている。秋田、津軽などは収穫が皆無、仙台で2分作の凶作だった。
「天明の飢饉(ききん)」(1780年代)と並び称される「天保の飢饉」だ。藩内は1827~44年の17年間にわたり、凶作が頻発。特に36年は大凶作で、藩の収穫量はわずかに平年の2%だった。
「仙台には数多く『乞食( こじき )体の者』(流人)が入り込んだ。(食料に)難渋する者は、雑穀は言うに及ばず、木の葉を食べている」(天保七申酉飢餓日記)
仙台藩の山間部は「わらすら採れない」状態。東北では2、3分作の地域が多かった。仙台城下や郊外には「(備蓄が豊富な)仙台に行けば、なんとかなるのではないか」と考えた困窮者が、他藩から流入した。
飢饉をもたらしたのは東北の太平洋側で頻発する「やませ」だったらしい。歴史学者阿刀田令造(1878~1947年)の著作「郷土の飢饉もの」に収録された史料に「沖あげという東風が吹いている」とある。仙台市史によると、36年の平均気温は平年より2・8度も低かった。
飢餓は家族の間を分かち、人心はすさんでいった。
「領外から妻子と共にやって来て10年以上にある者は、頼るところもなく、家族は離散した」「いくら金を積まれても子殺しはしないものなのに、飢えに臨んで子どもを捨てる者がある」(救済資金調達策「御救助方万人講」の呼び掛け文書より)
さらに疫病の流行が困窮者を襲う。1836年は市中の衛生状態が悪化、飢えで体力がなくなった人たちが次々に命を落とした。腸チフスだったとみられる。
「元来素食であるので、疫病で落命している由」(「郷土の飢饉もの」に所収された文書)
日本が近代化する明治維新の約30年前。奥州一の雄藩には、文明世界から程遠い光景が広がっていた。江戸時代(1601~1868年)全体を見ると、仙台城下では大地震20回、大水害34回、大火34回(市史)など、数々の災害に見舞われたとされる。仙台は災害と共にあった。
宮城県内の沿岸15市町からのメッセージ。東北を想う全ての人に「ありがとう」を。
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