牛置き去りにした「無念」石碑に刻む

石碑の前で原発事故からの10年を振り返る半杭さん=11日午前8時50分ごろ、南相馬市小高区
牛がかじった柱を見る半杭さん

 東日本大震災の発生から11日で10年となった。改めて「忘れない」と心に刻む人がいる一方、遺族にとっては「忘れられるはずのない」日々の積み重ねでもあった。震災で引き起こされた東京電力福島第1原発事故の影響も今なお続く。被災者、避難者、遺族…。一つの呼称では決してくくれない人生を、一人一人が歩んできた。

 「40頭の牛との生活が原発事故で奪われたことを、子や孫の代へ永久に伝えたい」

 南相馬市小高区の農業半杭(はんぐい)一成さん(71)は11日、いつもの朝と同じように庭の手入れをし、「無念」と刻まれた庭先の石碑をそっとなでた。

 あの日、乳牛を置いて避難せざるを得ず、牛はほとんど餓死した。帰還した2016年、経緯を記した石碑を建立した。飢えた牛たちがかじった牛舎の柱も、そのまま残っている。

 11年3月12日の原発事故に伴い、原発から19キロ離れた小高区の自宅も避難指示の対象となった。「牛を置いて逃げられるわけがない」。毎日、牛に餌をやり、搾乳しなければならない。

 近くの県道には、避難する車が連なり、原発事故の状況は日に日に深刻さを増した。数日後、酪農仲間と集まり、避難を決めた。牛舎に井戸水だけは供給できる。かかりつけの獣医師に電話で「避難する」と伝えると、絞り出すような声で言われた。

 「無念です」

 原町区の長女宅にまず避難した。先が見えない。置き去りにした牛を思うと涙が止まらなかった。

 4月半ば、警戒区域が設定されて立ち入り制限が始まる直前、親族の結婚式に参列するため礼服を取りに帰った。牛舎からは何頭かの鳴き声が聞こえた。怖かった。逃げるように立ち去った。

 再び牛舎を確認できたのは6月上旬。白い防護服で入ると、40頭のうち34頭が死んでいた。ギンバエが群がり、真っ黒。別の農家から逃げ出したのか、見慣れぬ牛や豚がいた。「見殺しにしてしまった」。痛恨のあまり涙も出なかった。

 小高区の農家の7代目。水田だけでは生活は厳しいと考え、福島県農業短大を卒業後、20歳で酪農を始めた。地域の酪農家同士で連携し、経営の効率化にも取り組んだ。「子ども3人、大学まで出せたのは牛さんたちのおかげ」

 原発事故で全てが一変した。事故前、70世帯余りが暮らした集落は今、約20世帯。昔の酪農仲間と牛の話はしない。現在は農地の草刈りや、近くの農家の飼料作物の収穫などを手伝う。飼料作物の需要は高く順調だが、気持ちの復興が進んだとは言い難い。

 「何が起きたのか後世に伝えなければ」。被災した畜産農家と協力し、15年に記録誌を発行した。牛がかじった柱の写真が、県立博物館(会津若松市)の学芸員の目に留まり、柱のレプリカは原発事故の実相を伝える「震災遺産」として展示されるに至った。

 博物館などの企画で、半杭さんの牛舎を見学に来る高校生もいる。「原発事故が奪った命の尊さを知ってほしい」。100年先、200年先へ。「無念」の思いを石碑に託す。
(菊池春子)

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