斎藤竹堂(さいとう・ちくどう)―儒学者(大崎市)―月将館の教え 幕末に光

涌谷城の近くにあった月将館の跡地。月将館は涌谷町の小学校名に使われている
斎藤家の菩提寺にたたずむ石碑
斎藤竹堂

 卓越した文才で幕末の志士や文人に大きな影響を与えながら、今日その業績を顧みる人は少ない。大崎市田尻出身の儒学者斎藤竹堂(1815~52年)を、地元の俳文学史研究者佐々木克郎さん(65)は「夜明け前の明星」に例える。

 竹堂は涌谷伊達家の家臣の家に生まれた。仙台藩校養賢堂を経て25歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に進む。

 小柄で控えめな物腰だったが、鋭い弁舌は聞く人を敬服させた。漢詩文が武家の素養だった当時、「仙台の三才器」の一人として名をはせた。

 いち早くアヘン戦争を論じた「鴉片(あへん)始末」(1843年)では、海防策を提言。清の敗北に衝撃を受けた知識人に広く読まれ、「幕末の先駆者」と位置付けられるほどの影響を与えた。

 30歳で昌平黌寄宿舎の事務を取り仕切る舎長になるが、父の病を知り帰郷。到着前に父は亡くなり、やむなく家を継いだ。

 竹堂は詩集「村居三十律」で「3年もの間束縛され、進退もままならない」と吐露する。しかし、郷里での5年間で、伊達騒動(寛文事件)を記す「尽忠録」など歴史書を中心に多くの著作を残した。

 涌谷の教育文化への貢献も大きい。竹堂は涌谷伊達家の郷学「月将館」の学事監督に就いた。

 1846年、昌平黌の校舎や書生寮が焼失。多くの寮生が遊学に出掛けた。頼三樹三郎や枝吉神陽といった学者や志士は竹堂を慕い、涌谷を訪れた。

 月将館は養賢堂に次ぐ郷学として、幕末に最盛期を迎える。町教育委員会の福山宗志課長補佐は「竹堂と文化人との交流が、涌谷の文化発展に大きな役割を果たした」と語る。

 仙台藩の儒学者小野寺鳳谷(ほうこく)とも親交を深めた。鳳谷は後に藩の洋式軍艦「開成丸」建造に携わる。西洋事情に明るかった竹堂の影響がうかがえる。

 外国船が頻繁に出没し、緊迫する国内情勢をみて、竹堂は江戸に上る。日本初の漢文西洋史書「蕃史(ばんし)」を編さんした後、持病の胃腸病が悪化。ペリー来航の前年に没した。

 妻の実家宛ての手紙には「命さえ続けば(学問に)励んで取り返したい」と悲壮な思いをつづっている。

 いつしか業績は歴史に埋もれ、斎藤家菩提(ぼだい)寺の陽山寺(大崎市田尻)に立つ石碑を訪れる人は少ない。幕末の明星は再び輝く日を静かに待っている。
(小牛田支局・横山浩之)

[メモ]没後150年の2002年、地元の有志約20人が業績を顕彰する「斎藤竹堂会」を結成。陽山寺で竹筒に灯をともす「竹灯祭」などを開催した。生誕200年を記念し15、16年には涌谷町の天平ろまん館で記念展があり、著書や手紙が展示された。

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みやぎ 先人の足跡

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