平成の大合併で2005年、登米市に合併した旧中田町。町名の由来となった中田沼は干拓工事で姿を消し、現在は見渡す限り水田が広がる。その豊かな実りは当時の財政を潤し、鉄道や教育機関の充実など地域インフラの礎を築いた。
4年にわたる干拓工事を指揮したのが登米郡長だった半田卯内(1851~1937年)だ。卯内は登米市迫町佐沼の有力者・半田家の長男として生まれた。ハリストス正教の洗礼を受け、その仲間と商社「佐沼広通社」を起こすが、コメ相場で失敗、卯内も財産を失った。その後、登米郡や宮城県庁に務めて頭角を現し、1908年に登米郡長に就任した。
郡内を流れる北上川の西側はおおむね平らで農地が広がる一方、大雨の際には点在する池沼があふれ洪水を繰り返した。治水事業は郡の大きな課題だった。
中田沼の干拓は、卯内が郡長に就任する前に採択されていたが、総工費約15万円は現在の価値で30億円以上とも言われる。当時の郡発注工事では桁違いの額だったため、必要性を疑問視する住民もいたという。
着工から2年目には大洪水が発生。住民からは「干拓工事は失敗」との声も上がった。卯内は大洪水を「絶好の機会」と捉えていた。沼周辺に船を浮かべて測量を徹底し、給水路や配管の位置を決めた。
干拓工事は12年5月に完成した。約461ヘクタールの水田が生まれ、コメの収穫量は約1000トン、小作料だけで当時の貨幣価値で約8万4000円にも上った。
当時、登米郡の主要地をつなぐ道路事情は悪く、鉄道の敷設を求める声が高まっていた。最大の問題だったのは鉄道敷地の購入費。卯内は中田沼開墾地収入から毎年1万円を支出、10年間で土地購入費の全額計10万円を寄付することを決めた。
敷地買収の資金にめどが立ったことで計画は進み、21年に東北線瀬峰駅(栗原市)を起点として登米町(現登米市登米町)まで約29キロを結ぶ仙北鉄道が開通した。68年に廃線になるまで、地域の産業発展に大きく貢献した。
本家筋に当たる半田淳子さん(67)=登米市迫町=宅には、卯内の写真など資料が残る。淳子さんは「子どもが生まれると名前を相談するなど、一家の支柱でもあったと聞いている」と話す。
郷土史に詳しい市歴史博物館学芸員の小野寺智哉(としや)さん(44)は「卯内が手掛けたのは登米郡史の発刊や旧佐沼中(現佐沼高)寄宿舎建設など多岐にわたり、登米の近代化に大きな役割を果たした」と話す。(登米支局・宮崎伸一)
[メモ]半田卯内の功績をたたえ、住民有志が1936年、登米市迫町の鹿ケ城公園に胸像と石碑を建てた。胸像はブロンズ製だったため戦時中は軍に供出されたが、62年に再建された。卯内の孫・麟氏は「めしのはんだや」を運営する半田屋(仙台市青葉区)を創業したことでも知られる。
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