高橋 勝蔵(たかはし・かつぞう)―洋画家(亘理町)―米で絵画学んだ先駆者

高橋勝蔵「静物」(1910年、宮城県美術館蔵)
高橋勝蔵(亘理町史から転載)
亘理町郷土資料館が所蔵する掛け軸「自画賛」
亘理町の高橋研二さん宅の静物画。1910年の第4回文展出品作「甲州葡萄」とみられる

 二つに割れたみずみずしいスイカとブドウの一粒一粒に、描き手の確かな目と技術が伝わる。亘理町出身の明治時代の洋画家高橋勝蔵(1860~1917年)の油絵「静物」だ。

 県美術館の学芸部長加野恵子さん(51)は「色、形、湿度、心地よさなど五感を刺激する腕の確かさと芸術性がある」と評価する。

 「近代洋画の黎明期にアメリカで絵画を学んだ先駆者」(加野さん)。その名前は美術史に埋もれ、ほとんど知られていない。

 1893年、米国から帰国した33歳の青年は前途洋々たる未来を描いていただろう。「わが国の発展に必要なる美術を修得して国家に尽くさん」と志し、25歳で渡米。サンフランシスコ美術院を首席で卒業し、シカゴで開かれた万国博覧会で一等金賞を受賞。実力は折り紙付きだった。

 94年、第6回明治美術会展覧会に油絵や水彩画を多数出品。米国で磨いた精巧な技法、色彩の美しさが見る者を引きつけた。

 時運が味方をしなかったのかもしれない。同じ93年、もう1人の人物が芸術の本場パリから帰ってきた。日本の美術に大きな影響を与えた黒田清輝(1866~1924年)。正統的な画法に印象派の表現を取り入れ、明るい画風が旋風を巻き起こす。裸婦画で話題もさらった。

 勝蔵は第6回展覧会で日清戦争を題材にした一部作品が「時局に迎合的」と批判されたこともあり、翌年から同会への出品をやめた。黒田が96年に結成し、画壇の主流派となる白馬会にも参加しなかった。黒田が美術界で地歩を固めるのと対照的に、徐々に表舞台から遠ざかった。

 11歳まで過ごした亘理町に50代半ばで戻り、求めに応じて水彩画、油絵、日本画を描いた。

 同町祝田の会社役員高橋研二さん(74)宅にはブドウの静物画がある。「遠縁かどうか分からないが、わが家にも泊まっていたようだ。宿賃代わりに贈られたらしい」と言う。

 晩年の掛け軸「自画賛」にこう記している。

 「古郷(ふるさと)亘理に来(きた)りて時雨(しぐれ)にあいたれば/きて見れば尽きぬなごりのしるしかな/古郷さむく時雨ふるかな」

 所蔵する町郷土資料館の学芸員武田恵美さん(51)は「古郷さむく」と詠んだ心情を「米国で評価されたが、思うような業績は残せなかった。古里で芸術を理解してくれる人も少なかっただろう」と推し量る。

 美術史にわずかに足跡をとどめる勝蔵。研究と再評価の余地が残されている。(亘理支局・庄子晃市)

[メモ]画号は芝山(しざん)。亘理町祝田生まれ。1871年、北海道開拓第3次移住団に加わり一家で移住。79年に画家を志し上京。85年、米国人事業家に認められ渡米。93年に帰国し芝山会創設。1917年東京の自宅で死去。「高橋勝蔵作品集」(1982年松浦昭編)「亘理町史下巻」(77年)などを参照した。

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みやぎ 先人の足跡

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