渋谷栄太郎(しぶや・えいたろう)―洋画家(大崎市)―美術家に活躍の場 提供

渋谷が光明寺本堂に描いた「金棺出現図」(縦1.1メートル、横2.3メートル)=大崎市古川
スケッチをする渋谷=1977年ごろ、名取市内
「避暑地の庭」(縦129センチ、横192センチ)=緒絶の館蔵

 昭和初期、仙台市内で河北美術展の前身となる大規模な展覧会が始まり、多くの美術家に活躍の場を提供した。旧長岡村(現大崎市)出身の洋画家渋谷栄太郎(1897~1988年)はプロデューサーとして東北画壇の発展に寄与した。

 大正期以降、仙台で数々の展覧会が開かれたが長続きはしなかった。渋谷は20歳で上京し、有名な太平洋画会研究所で学んだ経験と人脈を存分に生かした。

 1930年、商工省の官僚や河北新報社の協力を得て大きな展覧会を開き、事務局を務めた。当時の知事や東北帝大教授らを顧問に招いた。

 会場は現県庁の南にあった県商品陳列所。洋画だけが公募展で、日本画、彫刻、工芸の部では中央で活躍する作家の作品を集めた。見応えがあり、大盛況だったとされる。

 翌年は東北美術協会という組織を作って2回目を主催した。33年、河北新報社が引き継ぎ、第1回河北美術展(当時の名称は東北美術展)を開催。有数の歴史を持つ地方公募展が生まれた。

 渋谷は仙台を東北画壇の中心にしようと努めた。富谷市で幼稚園を経営する孫の渋谷和邦さん(62)は「明治維新の際、仙台藩が敗者となった歴史を意識し、何とか東北に光を当てようとした」と語る。

 後進の育成にも力を尽くした。28年、仙台で杜人社(とじんしゃ)(後の杜栄絵画研究所)を設立し、晩年まで続けた。

 渋谷は若い頃、フランス留学を目指し、西洋絵画の流れを強く意識した。静物画には南国風の果物や銀の食器を描き、西洋的な暮らしへの憧れを表した。

 30年に帝展(帝国美術院展)で入選した「避暑地の庭」はテーブルや椅子を出してくつろぐ家族を描く。同作をはじめ6点を所蔵する大崎市民ギャラリー緒絶(おだえ)の館の阿部陽子副館長は「近代絵画の父とされるセザンヌなどの影響が見受けられる」と指摘する。

 出身地の旧長岡村への思いも強かった。大地主の家で生まれ育ち、戦後の農地解放によって資産を失ったが、地元で幼稚園を経営して貢献した。

 画家としては菩提寺の光明寺から頼まれて本堂に「金棺出現図」を描いた。近くの斗瑩(とけい)稲荷神社には渋谷の死後に「静物」と題した絵が奉納された。

 80年、郷土画壇への功労によって河北文化賞を受賞。死去の翌年の89年、河北美術展に渋谷栄太郎賞が創設され、先駆者の名が受け継がれている。
(大崎総局・喜田浩一)

[メモ]渋谷は13歳の時、一家で仙台に移り、旧制東北中学(現東北高)卒。東京と仙台の自宅を行き来して中央の公募展でも活躍した。同郷の政治学者吉野作造(1878~1933年)や彫刻家牡鹿頂山(1899~1938年)と親交があった。

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みやぎ 先人の足跡

 私たちの暮らす現代社会の豊かさは、先人たちのたゆまぬ努力と強靱(きょうじん)な意志、優れた知性や感性などに支えられ、長い年月をかけて育まれてきた。宮城の地域社会に大きな影響を及ぼしてきた人々の足跡をたどり、これからの社会やおのおのの人生をより良くするヒントを学び取りたい。


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