若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも

見つかった政宗の書状。花押のみ本人の肉筆

 仙台藩祖伊達政宗(1567~1636年)が家督を継ぎ米沢城主になって2年目の20歳の時、伯父である山形城主最上義光(よしあき)の重臣に宛てた書状が仙台市内で見つかった。知られていない当時の最上家の動向が明記されている上、戦国武将の駆け引きもうかがえる貴重な史料。政宗の若い頃の書状は珍しく、覚悟や初々しい気概が読み取れるという。

 日付は卯月(うづき)13日(旧暦4月13日、現在の5月)で内容から1586(天正14)年の書状。宛先は最上家家老の氏家尾張守(おわりのかみ)=守棟(もりむね)=。縦33・7センチ、横47・0センチに当時の一般的な武将の書状と同じく右筆(ゆうひつ)が字を書き、花押のみ政宗の肉筆だ。有名なセキレイの花押の原型という。
 冒頭、鮭延(さけのべ)口まで出陣し真室(山形県真室川町)で敗れた氏家を気遣い、義光が自ら赴くことに関心を寄せている。義光出陣を知らせた氏家の書状への返事とみられ、山形勢が北の最上地方を攻略する緊迫した状況を示す。
 政宗は自身の近況にも触れ、南下して小浜(福島県二本松市)城主の畠山氏に攻め入る準備をしていると説明。政宗に家督を譲った父輝宗はこの前年、投降を装った当時の城主畠山義継に拉致され、阿武隈川(同市)の河原で殺害された。人質となった輝宗は伊達勢に「自分もろとも義継を討て」と命じ、凄惨(せいさん)な最期を遂げている。文面には父を弔う政宗の意思がにじむ。
 当時、伊達家と最上家は領地が接しておりライバル同士だが、引き続き手紙のやりとりも求めた。
 佐藤憲一・元仙台市博物館長は「盛りだくさんの内容だ。当時の義光の動き自体が知られておらず、新たな史料ではないか。戦続きの時期の二本松攻め直前の手紙で、政宗の覚悟が分かる」と指摘。友好的な内容で、政宗と義光は仲が悪いという印象とは違うが「両家はいつか直接対決もあり得ると意識している。腹の探り合いであり、相手の情報を引き出す戦国の世の駆け引きだ」と推測した。

<原文(抜粋)>      
急度用一簡候、仍鮭延口出勢付而其方被
打越之由候條、内々無心元候哉、近日於真室ニ
少々被失利之由、其聞候、実義候哉、就中
依之義光も自身被打出之由候、弥御床布候、(中略)
当口之事も二三家相催今十五日ヨリ
向二ニ押詰可及其刷之由令逼塞候、於時宜に
可御心安候、扨々其表模様委曲被顕回答候者
可為本望候、(以下略)

<現代語訳>
 急いでお手紙を差し上げます。鮭延口まで手勢を率いて出兵したとのこと、内心心配しておりました。近頃、真室で少々敗戦したと聞きましたが、本当でしょうか。特に、そのことを聞いた義光公も自ら出陣なされると聞き、どのような状況か知りたいものです。(中略)
 当方も2、3の味方となる者を誘って今月15日から二本松に向かい、相手に攻め入るつもりです。これから先のことは、どうぞご安心ください。そちらの様子を詳しくお知らせいただければ本望です。(以下略)

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