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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>律令国家の成立とあつれき

飛鳥時代後半~奈良時代の天皇系図と藤原氏系図
飛鳥時代後半~奈良時代の主な出来事

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配

<反乱鎮めに多賀城造成>

 今回から第4部「律令国家の完成と石巻地方の支配」に入ります。第3部では飛鳥時代後半の大化改新から天智天皇までのお話でした。第4部では天智天皇亡き後、天智の子の大友皇子と天智の弟大海人皇子が皇位継承を争う壬申(じんしん)の乱(672年)から奈良時代半ばの聖武天皇の頃までを取り上げます。天皇が飛鳥の有力豪族たちを抑えて権力を集約させ、唐に倣って都城( と じょう)を造営し、国家を統制する法制度(律令)・官僚機構を完成させた時代です。その頃の石巻地方はどのような状況だったのか、考古学・古代史の研究成果からひもといていきたいと思います。

 具体的な事象に入る前にこの時代の概要をお話ししておきましょう。

 645年、乙巳(いっし)の変で横暴を極めた大臣の蘇我本宗家を打倒し、新興勢力を導入して中央集権国家を目指した中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足らでしたが、孝徳天皇と不仲になり、さらに白村江(はくそんこう)の戦い(663年)で唐・新羅軍に大敗を喫し、唐の侵攻にも備えなければならない状況でした。近江大津宮に遷都して即位(668年)した天智天皇は671年に崩御します。天智は亡くなる直前、弟の大海人皇子に子の大友皇子の後見を託しますが、大海人皇子は固辞して吉野へ隠遁(いんとん)します。天智が亡くなると朝廷軍を率いる大友皇子と東国豪族や朝廷に不満を持つ飛鳥の豪族を中心とした軍を率いる大海人皇子の皇位継承の戦いが勃発します。これが壬申の乱(672年)です。この争いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。

■天武の権力絶大

 天武天皇は絶大な権力で国家運営を行います。冠位48階、八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(りょう)の制定に着手します。それまで「大王(おおきみ)」と呼ばれてきた天皇が「天皇(すめらみこと)」と呼ばれるようになったのが天武天皇からと言われています。686年、天武が崩御すると皇后の持統天皇が即位し、日本最初の都城である藤原京(新益京(あらましきょう))が694年に完成します。都城とは天皇が住む内裏(だいり)と政治を執る大極殿(だいごくでん)を中心に真北を基準とした碁盤の目状に街を造る構造の都市です。

■国統治の法 完成

 国家を統治する古代の法である律令(りつりょう)は701年、藤原不比等(ふひと)らの主導で完成します。律は刑法、令は行政法に当たるもので、唐の律令を日本の実情に合わせたのが大宝律令です。大宝律令の成立によって国・郡・里の地方制度も整ったことになります。718年には大宝律令を踏襲しながら改定した養老律令が制定されました。

 その間、旧来の豪族たちの影響を避けて飛鳥から北に離れた奈良盆地に都城を造営し、移転します。710年の平城京遷都です。新たな都城で日本の歴史書である「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が完成しました。

 奈良の都でも皇位継承が安定していたわけではありません。持統天皇の孫に当たる文武天皇が亡くなると女性天皇が2代続き、724年に聖武天皇が即位します。729年には藤原四氏の策略により王族の長屋王(ながやおう)が自害に追い込まれます(長屋王の変)。また、735年ごろから流行した天然痘の爆発的流行によって藤原四氏は737年、相次いで病死してしまいます。聖武天皇は仏教による鎮護(ちんご)国家を願い、廬舎那仏(るしゃなぶつ)造立、国分寺・国分尼寺の建立の詔を発したりしました。

■蝦夷の地を奪う

 律令国家の完成は東北地方にも大きな影響を及ぼします。大化改新直後に蝦夷の地に造営した初期の柵を基に、国家の版図(はんと)を拡大すべく715年に坂東の富民(ふみん)千戸を移住させます。1戸は20人と推定されますから2万人もの移民を送り込んだのです。また、律令の法制度により郡・里に編成され、租庸調(そようちょう)の税も課せられるようになりました。このような強制は在地の蝦夷とあつれきを生み始めます。720年に養老四年の蝦夷の反乱、724年の海道蝦夷の反乱が相次ぎ、石城国、石背国、陸奥国に分割した陸奥を再併合して広域陸奥国とし、反乱を鎮めるため新たに国府兼城柵として多賀城を造営することになったのです。

 第4部では、律令国家に組み込まれていく過程で起こる国家と蝦夷のあつれきの萌芽(ほうが)について、石巻地方の遺跡を題材にお話ししていきます。

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