発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>律令制の成立と城柵官衙の改変
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配
<国家政策で方位、真北に>
日本古代史上最大の内乱となった壬申(じんしん)の乱(672年)に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し天武天皇となります。天武は敵対した大友皇子(おおとものおうじ)朝廷軍に組した飛鳥の豪族を排除し、協力した豪族や美濃、尾張の豪族の武力を利用し絶大な権力を誇示します。
■持統天皇、後継ぐ
法制度である「律令(りつりょう)」や国史編さん、さらには中国皇帝が住む都をまねて日本で最初の都城(とじょう)の造営に着手していきます。しかし、その多くが完成を見る前に崩御してしまいます。後を継いだのが皇后の持統天皇です。689年、飛鳥浄御原令(りょう)を施行します。令としては天智天皇の時代に制定された近江令(おうみりょう)に次ぐものとされています。その後も藤原不比等(ふひと)らが主導して法の改定を進め、文武天皇の大宝元年(701年)、ついに大宝律令として律令完成にこぎ着けます。
■日本最初の都城
天武が目指した都づくりも694年に日本最初の都城として藤原京(ふじわらのみやこ)(新益京)が完成し、遷都します。藤原京は方位を北に合わせて設計され、京の中央北寄りに約1キロ四方の宮(天皇の住む内裏(だいり))と政務を行う朝堂(ちょうどう)が位置し、その周りに大路・小路によって碁盤の目状に区切られた街並みが整然と広がっていました。
浄御原令施行と藤原京遷都は全国の国(くに)、評(こおり)、さらには城(じょう)柵(さく)の置かれた国家範囲の近接地域にまで影響を与えています。
仙台市郡山官衙(こおりやまかんが)遺跡は7世紀末、方位が北から60度傾くI期から真北に合わせたII期に改められます。II期は外側を巡る溝を含めると約530メートル四方で、藤原宮(ふじわらのみや)の四分の一の大きさで設計されたと考えられています。内部は政庁正殿(せいちょうせいでん)とその南側左右に南北棟が建ち並ぶ配置で、藤原宮の朝堂院を模したかのようです。遺跡の外側は材木塀で囲われていて塀には所々に櫓(やぐら)が取り付いています。藤原宮のミニチュア版ともいえるII期はその構造から多賀城以前の陸奥国の国府と考えられています。II期官衙に隣接して付属寺院も建てられました。政庁正殿や寺院建物は瓦葺建物です。
■内部、機能ごとに
7世紀末頃、郡山遺跡のように方位の傾く囲郭(いかく)集落から正方位の城柵衙官に改変される遺跡には東松島市赤井官衙遺跡(牡鹿柵)、大崎市名生館(みょうたて)官衙遺跡(丹取柵?)、南小林(みなみおばやし)遺跡(丹取評正倉別院?)が知られています。これらの遺跡では、内部構造の機能未分化な囲郭集落(初期の柵)遺跡から内部を政庁や正倉、曹司などの機能ごとに分けた遺跡に造り変えられています。名生館官衙遺跡や南小林遺跡では瓦葺の建物も造られました。
方位の傾く遺跡から正方位に改変された遺跡は城柵ばかりでなく、前代から継続する評(郡)の役所も同様です。九州から東北南部にいたるまで全国的に、7世紀末から8世紀初頭に正方位を基準とするように変わっています。陸奥国では須賀川市栄町遺跡(石背評(いわせのこおり))や南相馬市泉官衙遺跡(行方評(なめかたのこおり))で改変されていることが分かっています。
7世紀末から8世紀初めに真北を基準に造り変える方針は全国的であり、国家の指導する政策と考えられます。689年施行の飛鳥浄御原令あるいは701年完成の大宝律令の法にのっとったものと想定されます。仙台郡山衙官遺跡II期の改変が藤原京の設計基準を基にしていると考えると、飛鳥浄御原令の規定によるものと考えても不思議ではありません。しかも、前代のヤマト王権の範囲である国造制の及んだ地域よりも北側の城柵にまで令制が広まったことを示すものとして注目されます。
赤井官衙遺跡に住む人々の墓域である矢本横穴墓群の29号横穴から出土した8世紀初めの「大舎人(おおとねり)」の墨書土器は、亡くなった人物の墓前祭に使用した土器です。生前、大舎人として勤務した都は藤原宮であったのかもしれません。7世紀末には既に、律令制が牡鹿地域にも及んでいたのです。
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