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家族的な関係、今後も シンポ「『新しい女川』の風景」 町への愛着を自らの手で

女川の風景について語る(左から)須田さん、鈴木さん、逢坂さん
須田 善明(スダ・ヨシアキ)さん、1972年女川町生まれ。明大卒。広告会社勤務を経て、県議3期目の2011年女川町長に無投票で初当選。現在、3期目。
鈴木 麻弓(スズキ・マユミ)さん、1977年女川町生まれ。日大卒。ポーランド・ポズナン、イタリア・ボローニャで個展。震災直後の活動を写文集「女川 佐々木写真館」にまとめた。
逢坂みずき(オオサカ・ミズキ)さん、1994年女川町生まれ。岩手大卒。塔短歌会、仙台啄木会所属。作品集に「まぶしい海-故郷と、わたしと、東日本大震災-」

 東日本大震災後に再生された女川町の風景について議論するシンポジウム「『新しい女川』の風景」(主催・三陸河北新報社、協賛・東北電力)が11日、女川町まちなか交流館で開催された。須田善明町長、町出身の写真作家で日大芸術学部写真学科准教授の鈴木麻弓さん、町在住の歌人逢坂みずきさんの3人が講演。3人によるフリートークもあり、約90人が聞き入った。

   ◇

【トークセッション】
■パネリスト
 女川町長 須田 善明さん
 写真作家 鈴木 麻弓さん
 歌 人  逢坂みずきさん
■司 会
 三陸河北新報社常務 藤原 陽

-女川の好きな風景を写真で紹介してください。

 須田さん>JR女川駅前から見える初日の出は、テナント型商店街「シーパルピア女川」の先の海から昇る。1円もかけずに何かしらの場の価値を生みだせないかという思いから設計した。1000人以上が集まる。

 逢坂さん>地元尾浦地区のカキ処理場を選んだ。明かりがついていると安心感があり「自分も頑張ろう」と励まされる。水産業を軸とする女川ならではの一枚ではないか。

 鈴木さん>熊野神社から撮った震災前の町の写真などを見返すと、営みの積み重ねで今があることを感じる。同じ所に住み続ける理由はこの町が好きだからというのが大きくて、町全体にその空気があるのもよく分かる。


-震災後に生まれた風景をどう生かすか。

 逢坂さん>商店街周辺は観光客向けというイメージ。住民の憩いの場もあるが、若い世代は特にそう感じているのではないか。土日も含めて人が集う所になりそう。

 鈴木さん>新型コロナウイルスの影響で地方への移住に関心が高まっている。首都圏などにいる住民のUターンも含めて人が集まれば面白いことがたくさん起こるのではないか。

 須田さん>町民会議などを活用して、住民が地域に関わるきっかけを増やす。自分たちになじむ風景を自分たちでつくるというスタンスを大事にしたい。


-風景はどんな役割を果たすか。

 鈴木さん>スペイン語に「mi casa es tu casa」(私の家はあなたの家)という言葉がある。隣近所の概念がなく、みんなが家族のような関係性は今後も必要だ。

 逢坂さん>新たな景色を受け入れられるようになってきた。震災から時を経たからこそ、感じる思いや生まれる言葉もあるので、短歌にしていきたい。

 須田さん>「お茶っこ飲み」のような交流が増えて、日常が楽しいと感じ「おらほのまちはいいんだぞ」と自信が持てるようになればいい。そんな空間をつくる役割を果たしたい。

 

「地域に関わり自分の町に」女川町長・須田善明さん

 1975年の(空から見た)女川町の風景は今の地形と近いものもあるが、違うと感じる部分もある。山を切って病院を作ったり道路ができたりしてよく知る12年前までの町になった。

 (東日本大震災前の)2010年と(震災直後の)12年前を比べると、残念だが取り戻せないものがたくさんあり、大きく変わらざるを得なかった。今の風景に対する違和感やあてがわれたものという感覚は、特に最初は皆さん強かったと思う。

 復興まちづくりで、女川の象徴的な風景が何か職員同士で話したことがある。針浜生まれだと一番は万石浦、浜の皆さんはそれぞれの浜の風景だと思う。当たり前の話だが住んでいる所によって違う。

 自分が住んでいる場所をいい所だと感じる人が圧倒的に多いと思うが、そうじゃない人もいる。われわれだって嫌なことがなかったわけじゃない。でもなぜ女川が好きかというと、自分にとっての前向きな気持ち、うれしさや楽しさ、喜びが少しでも上回る。あるいは震災を経てもそういう経験をしたからではないか。

 まちづくりに直接携わった人は町を自分の居場所と思っていると感じるが、そうでなければどこかから持ってきた町のように感じる人もいて当然。その両方がない交ぜになっているのが今だと思う。

 新しい町にどう手あかを付け、自分自身の風景にしていけるか。これからみんなで考えて皆さんの力も借りながらやっていきたい。

「復元作業、つながりも復活」写真作家・鈴木麻弓さん

 写真集「The Restoration Will(復元の意志)」は2017年に発表し、イタリアやスペインなどで年間最高賞を受賞した。20年、新進作家に選ばれ、東京都写真美術館で展示された。悲しい震災の話でなく、未来の方向を見たある家族の話として視点が広がったことで世界中が共鳴してくれた。

 震災で両親を亡くし、直後は女川の現状記録に努めた。今はアーティストとして写真で物語を編むことに取り組む。その成果だ。

 (父の佐々木厚さんが営んでいた)佐々木写真館跡地で見つけた父のレンズや写真は神奈川県の自宅に持ち帰った。レンズの中に泥が入り込み、撮影してみるとぼやけて独特な世界が現れ、場所によって感情表現として使えると思った。

 女川の半島の浜を回って撮影し、石浜では亡くなった方々が見守っているような気に。16年3月11日、写真館跡地で両親の友人の協力で夕暮れ時にろうそくをともして撮影した。復元の意志とは、多くの悔いが残ったお父さんの遺志でもある。共同作業で手伝ってもらった気になった。

 父がサン・ファン・バウティスタ号の船大工を撮影した肖像写真は泥や水で傷んだ状態を再現し、写真集に加えた。写真館前で私が姉におんぶされている写真は、多くが津波に削られた。近所の子どもに同じ姿を演じてもらい撮影、合成した。復元の過程で近所の方々の協力を得て地域コミュニティーを復活できた。作品を作った一番の意義だ。

「時を経て町の変化を受容」歌人・逢坂みずきさん

 これまで詠んだ東日本大震災からの復興に関する短歌を、年代別にピックアップした。町の変化と自分の気持ちの変化をどのように表現してきたか考えたい。

 2014~16年の大学生の頃に「空蝉(うつせみ)を探しし頃の森いずこ街づくりとは山崩しかな」と詠んだ。重機による大がかりな復興工事の様子は、自然環境が破壊されているように思えた。「戻りたい 三月十一日がただ春のはじめの日だつた頃に」は震災前の暮らしへの執着心が残っている。

 20年の「浦の名のつく集落の看板が山に向かって矢印をさす」は、海辺を意味する「浦」が付く集落が移転し、看板の矢印が山の方を向く。高台は安全だけれど、本来の場所ではないという復興した町への違和感を覚えていたのだと思う。

 21年の「戻りたい、返してほしいという気持ちもうなくなりて橋を見に行く」「もう何も失(な)くしたくない ふるさとの古き写真の海凪(な)いでおり」は、復興しつつある街になじみ、昔に戻りたいという思いは薄れている。一方で取り戻せた暮らしをまた失いたくないという思いが強まっていた。

 当初は人工的な復興工事と自然との対比や震災前の暮らしへの未練が多く、復興が進み変化する風景への戸惑いが増えた。今も震災前の風景への懐かしさは消えないが、変化を受け入れられるようになってきたと感じる。犠牲者への弔いの気持ちや自分が生きていることのありがたみが湧いてくる時もある。

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