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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>ムラの復興

7世紀末から8世紀初頭の牡鹿地方の城柵と集落遺跡
8世紀初めに復興した須江関ノ入遺跡16号住居跡(河南町文化財調査報告書第4集より。石巻市教委提供)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配

<蝦夷に戸籍、反乱の源に>

 大化改新の後、東松島市赤井遺跡、石巻市桃生城前身の遺跡、須江関ノ入遺跡に関東からの移民集落が出現しました。7世紀後半、赤井遺跡が材木塀で囲われる移民主体の囲郭(いかく)集落(初期の牡鹿柵(おしかのさく))ができる頃に移民の集落と石巻市桃生町角山(かどやま)遺跡の在地集落がいったんなくなり、あたかも囲郭集落に取り込まれたような状況になります。

■官衙的な土器も

 赤井遺跡以外の周辺集落が再び復興するのが7世紀末~8世紀初めごろです。赤井遺跡が囲郭集落から真北を基準として大改変し、城柵官衙(じょうさくかんが)遺跡になる時期に当たります。

 伝統的な在地集落である角山遺跡では8軒の竪穴住居が復興しています。使用している土器を見ると、それまで使っていた東北地方北部の特徴を持った土師器を主体に少量ですが須恵器が伴うようになりました。

 須江関ノ入遺跡では5軒の竪穴住居が建てられ、仙台平野と同じ特徴の土師器を使う集落が登場し、赤井遺跡にも見られる金属器を模倣した土器も加わっています。

 石巻市田道町遺跡でも集落が登場し、仙台平野と同じ特徴の土器に加えて、金属器や須恵器を模倣した土器が使われています。

 復興したこれらの集落ではごく少量ですが、これまでの集落で使っていた土器に加えて、金属器や須恵器を模倣した官衙的な土器が伴います。さらに、これまで入手が難しかった須恵器も手に入れることができるようになりました。集落も地域を統括する牡鹿柵の影響を受けていたことを示します。

■納める稲、少なく

 国家施設である牡鹿柵と復興した集落は、どういう関係だったのでしょう。大改変された東松島市赤井官衙遺跡(牡鹿柵)では、役所機能を持つ倉庫(正倉(しょうそう))地区や館院(たちいん)地区が造営されています。正倉とは元々地方を統治する評(こおり)(郡)の役所に設置されたもので、郡内の里(さと)(郷)で収穫された稲もみを一定の割合で租(そ)として納める倉のことです。

 7世紀末から8世紀初頭(赤井遺跡III-1期)の倉庫の床面積は平均23平方メートルで小型のものです。

 飛鳥浄御原令(689年)、大宝律令(701年)が施行された段階は牡鹿地方のムラが復興してきたとはいえ、牡鹿評(郡)に住む公民(国家の民)の戸数も少なく、納める租の量も少ないことから赤井官衙遺跡の倉庫の規模も小さかったと推測されます。

 現存する養老律令(718年施行)の規定では蝦夷には税は課されず、逆に服属した蝦夷には夷禄(いろく)や蝦夷爵(えみししゃく)、「君(きみ)(公)」の姓(かばね)が与えられることになっています。しかし大宝律令の段階でも同じだったとはいえません。

 ある研究者は辺国(へんこく)(北方の蝦夷や南方の隼人(はやと)と接する国)の国守(くにのかみ)(国司(こくし)の長官)に特別の職掌が与えられていることに注目しています。その職掌は、大宝令では「撫慰(ぶい)・征討(せいとう)・斥候(せっこう)」、養老令では「饗給(きょうきゅう)・征討・斥候」に一部変更しています。後半の「征討」は軍事力で討つこと、「斥候」は蝦夷社会の動向を探ることです。

■課税や兵役狙う

 大宝令と養老令で異なっている前半の「撫慰」は蝦夷を慰め戸籍に招き入れて編戸すること、「饗給」は供宴を催し禄(ろく)を賜与(しよ)して蝦夷を懐柔することを意味します。飛鳥浄御原令から大宝律令の段階では、城柵官衙の周辺に住む服属した蝦夷を編戸することが前提であったと考えられます。蝦夷の戸籍を作り掌握することによって租や出挙(すいこ)、雑徭(ぞうよう)や兵役に駆り出したのではないでしょうか。

 城柵周辺のムラは復興して農作業を中心とする生業活動が再開し始めたものの、それ以前の自由な生業とは大きく変わったのかもしれません。それがあつれきを生み、蝦夷の反乱の引き金となっていくのです。

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