発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>国府、城柵と郡家の役人
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配
<牡鹿郡から異例昇進も>
■国郡里制で統治
大宝元(701)年、大宝律令が完成して日本の国は法制度に基づく国家運営が本格化しました。国家は全国を66の国、約550の郡、約4000の里に分け、「国郡里制(くにぐんりせい)」という制度で地域・人民を統治しました。郡は2~20里で一つの郡に、里は50戸で一つの里(717年以降は「郷」)に数えられました。
■地方も役人配置
天皇がいる京(みやこ)では二官八省(に かん はっしょう)の機構が設けられ、中央の役人が勤務します。地方に置かれた国、郡、里にも役人が配置されました。国の役人は中央からの派遣官で、守(かみ)(長官)、介(すけ)(次官)、掾(じょう)(三等官)、目(さかん)(四等官)の国司四等官(こくししとうかん)と史生(ししょう)などの事務官が任命されて赴任します。派遣される人数も国の大きさによって多少異なります。現在の福島、宮城、岩手県に当たる陸奥国の場合は大国(たいこく)なので、国司も守、介、大掾、少掾、大目、少目の6人が派遣されています。中央で五位から六位の位階を授かった人物たちです。原則、地方在住の公民は国の役人にはなれません。
郡の役人は地元の有力豪族が選ばれます。律令制以前の国造(くにのみやつこ)や新興の有力豪族です。郡司も管轄する里の数によって人数の増減はありますが、基本的には大領(たいりょう)(長官)、少領(しょうりょう)(次官)、主政(しゅせい)、主帳(しゅちょう)の郡司四等官で、大領、少領が郡領(ぐんりょう)と呼ばれる責任者でした。郡司は国司が推薦する外七位(げしちい)クラスの位階を持つ人が郡司候補者として式部省に直接赴き、試問を受けて任命されました。基本的に郡領は世襲ではなく一代交代の職ですが、終身制で亡くなるまで郡領を務めることとなっています。ただし、蝦夷と境を接する郡(近夷郡(きんいぐん))の郡領は関東からの移民系氏族が世襲した例が多いようです。里にも50戸をまとめる里長(郷長)がいて、里から選ばれました。
中央の役人の位は「内位(ないい)」といって正一位から少初位下まで30階級に分かれています。五位以上が貴族と呼ばれる位です。8年ごと(後に6年ごと)に考課と呼ばれる勤務評定があって評価が上だと3階級、中だと1階級上がります。地方から京へ出仕して役人見習から始めて、中だと5階級上がるのに40年もかかります。従って、地方出身者が貴族の位まで上がることは、よほどのことがない限りありません。地方出身者で最も昇進したのは遣唐使や右大臣を務めた吉備真備(きびのまきび)で正二位です。それに次ぐのが牡鹿郡出身で正四位上まで異例の昇進を遂げた道嶋嶋足(みちしまのしまたり)です。
地方在住の役人は「外位(げい)」といって位階の前に「外」の字が付く階級名を与えられ、外正五位上から外少初位下までの20階級に分かれます。外位の人物は原則、内位を授かることはありません。
国、郡の役人のほかに、軍団や鎮兵の兵士の制度がありました。多賀城以北には玉造団と小田団が編成されています。牡鹿郡は小田団に所属し、公民から期間を限定して軍団兵士として勤務することが定められていました。鎮守府(ちんじゅふ)や軍団の指揮官は中央からの派遣官が担当し、国司と兼務することもありました。
■位階で違う服装
位階による階級の違いは儀式で身に着ける服装にも当てはまり、服の色や帯にも明確な違いがありました。東松島市矢本横穴墓から出土した革帯には3・1センチ四方の銅製金具(巡方(じゅんぽう))が付けられていますが、七位前後の位階の人物が身に着ける帯に当たります。また、石巻市山田古墳群出土の金具は小型で細長く、八位以下の帯に付けられたものの可能性が高いと思われます。
石巻地方には奈良時代、牡鹿柵と桃生城の城柵、牡鹿郡と桃生郡の郡が置かれていました。城柵は国の機関なので、中央の役人が城司として派遣され、郡の役所には在地豪族から郡領が任命されました。全国には数多くの中央、地方の役人がいますから、一人一人の名前が歴史書に残されているわけではありませんが、古代牡鹿地方はその中でも役人の名前が何人も記載されたまれな例に当たります。その話はまた、別の機会に。
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