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宮城県沖地震45年 語り継ぐ「わたしの記憶」<アンケート詳報 60~80代以上編>

 1978年の宮城県沖地震から12日で45年となります。河北新報の「読者とともに 特別報道室」のLINE(ライン)を通じて寄せられたアンケートの地震体験談を詳しく紹介します。被災者の経験に耳を傾け、再び襲ってくるであろう災害に備える機会にしませんか。

 宮城県沖地震は1978年6月12日午後5時14分、宮城県沖の深さ40キロを震源に発生しました。マグニチュードは(M)7・4。当時の基準で震度5(現在の5強、5弱に相当)を、大船渡、石巻、仙台、新庄、福島で観測しました。死者は28人で、ブロック塀や石塀の倒壊などによる圧死が相次ぎました。宮城県内を中心に負傷者は1万人超。約7500棟の建物が全半壊し、国が1981年に建物やブロック塀の耐震基準を見直す契機となりました。

[アンケート概要]5月19~22日、「読者とともに 特別報道室」のLINE(ライン)で友だち登録する人に実施し、247人から回答がありました。宮城県沖地震を体験し、記憶がある方に対し、思い出すことや、困ったことなど具体的な記憶を尋ねました。

1階部分が押しつぶされた大洋漁業ビル=仙台市宮城野区苦竹(1978年6月13日河北新報)

【60代】「宮城県沖地震」と聞いて思い出すことは?

幹線道路の橋の崩落。(宮城県南三陸町・男性・会社役員)

トイレ。(仙台市・男性・会社員)

道路が寸断された。家の瓦が結構落ちた(仙台市・女性・パート従業員)

建物の1階がつぶれた映像を見た。(仙台市・男性・会社員)

当日、山形市で仕事で貨物車に同乗しており、車も大きく揺れ、市内のブロック塀が波打って揺れているのを見て、非常に驚いたのを覚えています。(宮城県岩沼市・男性・会社役員)

建物被害が集中した仙台市若林区の卸町団地。1階部分がつぶれている(1978年6月14日河北新報)

「ブロック塀が崩れ、命の危機を感じた」

仕事中に揺れ、ブロック壁の倒壊等で家族が心配になった。(宮城県角田市・男性・無職)

ブロック塀が簡単に崩れて、命の危機を感じた。(宮城県登米市・女性・主婦)

断水になり、近くの小学校の校庭の水道から水が出たので、くみに行きました。(宮城県石巻市・女性・主婦)

お向かいの食堂のおじさんが寺の新築祝いに行って寺がつぶれて亡くなった。仙石線に乗っていたけど途中で止まり、同じ専門学校の友人が車を出してくれて凸凹の道を家まで送ってくれた。次の日、電車は止まっていた。(仙台市・女性・自営業)

まだ高校生でした。兄が仙台市に住んでいて、安否が分からず心配しました。叔母は孫を迎えに出て、玄関先の石門の下敷きになり亡くなりました。私は郡部在住でしたので、特に不便はなかったように記憶しています。(宮城県丸森町・女性・パート従業員)

「立っていられないほどの揺れ」

水泳部の練習中でプールサイドに上がったら、立っていられないほどの揺れ。揺れでプールの水がかなり減った。(宮城県東松島市・男性・公務員)

仙台バイパスが段差から走行できない。(仙台市・男性・会社員)

当時、高校生の私は、学校を終えてバス停に向かっていました。あと少しでバス停という時に、あの地震。花屋さんの前にいた私は、カバンが落ちて割れる音、揺れる電柱、屋根の瓦が落ちて割れる音。生きた心地がしませんでした。唯一の救いは、遅れながらもバスが来て無事に家に帰れたこと。当時は、まだ福島に住んでいました。(宮城県岩沼市・女性・主婦)

地震後、交通機関がまひし、歩いて帰宅。(宮城県名取市・女性・主婦)

懐中電灯、電池、トイレットペーパー、食料などで、その点は東日本大震災と同じだが、暖房、津波の心配はなかった。(仙台市・男性・団体職員)

地割れ、塀の倒壊。(宮城県大崎市・男性・団体役員)

歩道に崩れたガソリンスタンドの屋根=仙台市太白区郡山(1978年6月13日河北新報)

「星空は無情なまでの美しさだった」

ライフラインが全部なくなり、真っ暗な町、その時の星空は無情なまでの美しさでした。生きている限り忘れる事はないでしょう。(宮城県利府町・女性・主婦)

交通網がまひして長時間歩いて帰宅した記憶。(宮城県利府町・女性・会社員)

河北新報社社内に。当時は鉛活字の時代。製作職場(工場と言われていた)に。17時14分だったか。柱が左右に、天井に張り巡らされた空調ダクトが激しく揺れ、死を覚悟。活字鋳植機の鉛釜から溶けた鉛が床へ。幸いやけどなど負傷者なし。停電する中、揺れの方向にあった活字ケースがバタバタと倒れ、ほこりが舞い上がり廃虚のように。当時の製作局長が、東北電力からの自家発電機貸与の手配、8ページ建ての紙面を出す、と大声で周知。皆、ロウソクをたきながら、しばし待機。当時は公衆電話しかなく、皆、列をつくり、やっと家族の無事を確認。ざっと以上でしょうか。(仙台市・男性・無職)

「家具が転倒していた」

停電。仙石線が運休になり、登校がバスだった。が、満車になり、何台か見送った。(宮城県石巻市・女性・会社員)

仙台駅から会社の卸町の寮まで歩いて帰ってきた事。食品の備蓄がないので食事ができなかった。(仙台市・男性・無職)

自宅に帰ったら家具などが転倒していた。近所のスーパーに食料等の購入で駆け込んだ。(仙台市・女性・主婦)

18歳、就職して2カ月ちょっと。突然の揺れで慌ててデスク下に潜り込んだ。デスクやキャビネットの引き出しが出たり入ったり、ガシャガシャ大きな音が響き渡る。コップやコーヒーカップが割れる音もする。長く感じたが、揺れが収まってから片付けは後日。すぐ帰宅命令が出た。電力ビル前のバス停は長蛇の列、来たバスもどれも満員。仕方なく歩いた。一番町から太白区の西の平の自宅に向かう。途中、根岸付近で水道管が破裂して、吹き出した水が歩道を遮り、川のようになっていた。たくさんの人が歩いていて、皆、立ち止まりながらも仕方なく水の中を渡って歩いた。靴の中までぐちゃぐちゃになった。龍沢寺前でバスが来たが、やはり満員で乗れなかった。靴もぬれヘトヘトだったが、やっと家に着いた。母と妹が待っていた。父は岩手に単身赴任で何度も電話したらしいが、つながらなかったそうだ。停電したが、ロウソクの明かりで安堵(ど)したのを覚えている。これが当日の記憶です。(仙台市・女性・パート従業員)

ブロック塀の倒壊が相次いだことも宮城県沖地震だった=仙台市若林区南小泉(1978年6月13日河北新報)

「子どもがたんすの下敷きになりかけた」

学生総会で体育館にいて出口に逃げた後、いたところにガラスが落ちてきた。停電でろうそく、懐中電灯で生活していた。(仙台市・男性・会社員)

家族との連絡。(仙台市・女性・専従者)

ブロック塀、停電による信号機がつかなく、道路の渋滞。(仙台市・男性・無職)

インフラ整備が遅れ、不自由だった。(仙台市・女性・無職)

その日は車を運転していた。家に帰ると足の踏み場もないくらい散らかっていた。(宮城県多賀城市・男性・無職)

子どもがたんすの下敷きになりかけた。今思い出すと胸がキュンとなります。地震の揺れが来る10分前に抱っこして、外に出ていた。困ったことは、トイレでした。(仙台市・女性・無職)

当時中学生でした。ガラスが飛び散り、けがをした。(宮城県石巻市・男性・会社員)

初めて教師となり、生徒と共に翌日の行事の準備をしていた時だった。2階だったが木造校舎がかなり揺れた。その場で机に潜り、校庭に避難したことを覚えている。(宮城県石巻市・女性・無職)

「この世の終わりだと思った」

当時は青森で体験した。大きな横揺れが宮城県沖地震だとテレビを見て知った。(仙台市・男性・主夫)

津波よりも建物やブロック塀の倒壊。(仙台市・男性・無職)

大学3年の時、期末試験の最中、図書館にいて、落ちて来た書物の下敷きになりかかって怖い思いをしました。(神奈川県・男性・無職)

電車が止まってしまい、仙台から歩いて帰ってきた。(宮城県塩釜市・女性・無職)

海岸の液状化。(宮城県石巻市・男性・パート従業員)

学校帰り、すごく怖くてそばにある電柱に抱きついていました。この世の終わりだと思いました。(仙台市・女性・パート従業員)

当時は岩手県の気仙地方に住んでいました。祖父の葬式のために祭壇を作り終えて、直後に地震がありました。祭壇が崩れ落ちました。ニュースで宮城県沖地震だと分かりました。仙台の地域は忘れましたが、ブロック塀が崩れ落ちているのが映って、ひどい状況だったと思います。(仙台市・女性・主婦)

 職場から家まで歩いて帰りました。停電と断水になりましたが、妹がお風呂に水をためてくれたので助かりました。(宮城県名取市・女性・主婦)

地震の揺れで崩れた塀=仙台市青葉区中央2丁目(1978年6月13日河北新報)

「屋根から転落した」

当時福島市で高校生だったが、自宅の部屋の本棚が倒れて本の下敷きになったこと、家の近くの土蔵から土煙が上がったのを鮮明に覚えている。(茨城県・男性・公務員)

当時は高校2年、特に身近な被害はなかった。(仙台市・男性・会社員)

他県から宮城県に新卒で就職した新入社員でした。週末に同期の家の塀の片付けに行き、汗を水風呂で流したのを覚えています。若かったので困った事はなかったです。(宮城県大河原町・男性・無職)

上棟式の最中に、屋根の上で地震を感じた瞬間、屋根から転落した。(宮城県気仙沼市・男性・無職)

当時、勤務先が仙台の病院に事務職として勤務しておりました。信号機は止まり、病院の前の道路も車が大渋滞していました。電気、ガス、水道が止まり、患者さんのお世話や急患の受け入れのため、その日は大半の職員が泊まり対応しました。(仙台市・男性・無職)

「グランドピアノが動いた」

隣のおばあさんが外に出てブロック塀の下敷きになった。助けられてけがだった。(宮城県七ケ浜町・男性・自営業)

音楽室のグランドピアノが見る間に動いたのが忘れられません。(岩手県一関市・女性・公務員)

当時、仙台向山高校の1年生で学校にいました。まだ新設校でありながら、当時の校舎は仙台電波高専のおさがり校舎で、かなり被害がありました。あまりの揺れにどうすることもできませんでした。(宮城県名取市・女性・教員)

自分の住んでいた場所は内陸部だったので、津波被害も受けず。また、宮城沖地震時の経験から飲料水、食料を備蓄したため、ほぼ、不自由なく3家族が暮らす。ガソリンも営業所間のやりくりで賄った。電気回復後、燃料を輸送会社に支給しながら稼働。(宮城県白石市・男性・無職)

「20キロを歩いて帰宅した」

電気、ガス、水道が止まった。(宮城県大崎市・男性・公務員)

特に被害はありませんでしたが、夕方に発生したので弟が仙石線で帰って来られなくて大変でした。(宮城県多賀城市・男性・会社員)

当時、秋田県横手市に住んでましたが、高校の通学で乗っていた列車が横手駅手前でストップ。横手駅まで線路を歩いた記憶があります。(仙台市・男性・会社員)

停電と道路の段差。(宮城県塩釜市・男性・アルバイト)

当時、高校生で汽車が止まり、公衆電話は人が並び自宅に連絡できず、20キロを歩きで帰宅。(宮城県白石市・男性・公務員)

倒壊したビルに閉じ込められた人の救出作業=仙台市宮城野区苦竹(1978年6月13日河北新報)

「帰路の途中は、大渋滞!」

会社で仕事中に地震が来た。ショールームのガラスが割れた! 積み上げられた書類の段ボールのほか、あらゆる物が崩れた! 会社から帰路の途中は、大渋滞!(宮城県名取市・男性・会社員)

家の倒壊やブロック塀が倒れた。停電、水道が止まり、食事やお風呂が入れなかったことが大変だった。道路の陥没や段差ができた。(宮城県名取市・男性・会社役員)

当時、山形市に住んでいた。ピアノのレッスン中だったのですが、先生が「蔵王でも爆発したかな」と言っていた。夕方だったが、駅前のダイエー山形店はすぐ閉まったが、地元のスーパーヤマザワは開いていたと思う。夫は仙台出身なので、実家に電話したら、「家の中がめちゃくちゃなので、逆に帰ってこなくて良い」と言われたらしい。ガスが止まって、お風呂に入れなかったので、秋保かどこかの温泉に入りに行った、と言っていた。(仙台市・女性・パート従業員)

給水車は来なくて困りました。お風呂の残り湯でトイレ流したり。卓上コンロが普及し始めの頃で、わが家にあり、すごく助かりました。アパートだったので、玄関を開けたら、冷蔵庫がお帰りなさい、と目の前に。縦揺れはすごい。(神奈川県・女性・主婦)

大学のあった多賀城から下宿先の本塩釜まで歩いて帰った。(宮城県名取市・男性・会社員)

「丸光デパートの窓ガラスが割れた」

アパートの4階に住んでいたので水くみが大変で、その後マンションを買うことになった時にエレベーターが止まることを想定し、かろうじて自力で上がれる5階にした。しかし、その後の3.11震災を経験し、宮城県沖地震の3倍は強い!と揺れている間、感じていました。比較すると被害の差はありますが、前回の地震で防げることを教訓にしていれば、少しでも被害を防げることもあるのではないかと思います。(仙台市・女性・アルバイト)

夜勤で寝てたので、ビックリして、会社が被害出て、出勤できなかった!(仙台市・男性・無職)

バスで帰宅途中、仙台駅前で地震に遭いました。バスが揺れて丸光デパートの東側の窓ガラスが割れて、上からキラキラ降ってきたのを見ました。仙台ホテル前が終点でしたが、日ノ出ビルの屋上給水塔が壊れて、歩道が水浸しになっていました。停電で信号が消えていたかもしれませんが、幸い渋滞になる前に、南方面に向かうバスに乗り換えることができました。舟丁でバスを降りると、家々の瓦屋根がずれていたり、ブロック塀が傾いていたり、町全体が斜めになったような感覚でした。自宅は何でもないどころか、玄関扉からめちゃくちゃになっており、前日に取り換えたばかりの夏物のスリッパにガラス破片が飛び散り使い物にならず、げた箱から冬物のスリッパを出しました。家の中に入りたくても、サッシ戸は外れたり、ゆがみ、勝手口に回れば食器棚が倒れて、台所をふさいで入れませんでした。無駄な動きをしていたら、仕事から帰ってきた母に「断水になるかもしれないから、お風呂に水をためておくように」と言われました。日が長かったので20時頃まで片付けをしました。玄関も勝手口も廊下のサッシ戸も外れてしまい、母と2人暮らしで、不用心だけど、とりあえず戸を立てかけておくしかできませんでした。電話もつながりにくい状態でした。中体連の日で、「帰宅出来なくなった〇〇中学の生徒はどこそこにいます」とずっとラジオで流していました。県南に住む叔母夫婦に電話連絡が取れ、その日の深夜に、車で食料などを運んできてくれたことは今でも忘れられません。聞けば仙台に入るあたりから、電灯がついていなかったそうです。停電でテレビも見られず、被害の全体像も分からず、いつも自然災害のとき、当事者には何も伝わっていないと感じます。珠洲市の地震でも、古い木造家屋の瓦屋根や、土壁などに被害が集中しているようです。地震保険の加入率も宮城県は高いそうですし、何度も地震を体験しているので、住宅の耐震化も進んでいるようです。(仙台市・女性・無職)

「上にあるものはすべて落下した」

当時、腰の捻挫治療で整形外科で器械によるマッサージ中でした。激しい揺れに看護師や医者が窓から避難…。身動きの取れない自分はもう終わりかと思いました。(仙台市・男性・無職)

とにかく、上にあるもの、吊り下げタイプの照明器具、壁などすべて落下した。当時はまだ耐震、免震の認識はなかったように思う。(仙台市・女性・主婦)

割れたショーウインドーのガラスを片付ける店員の女性=仙台市青葉区一番町(1978年6月13日河北新報)

【70代】「宮城県沖地震」と聞いて思い出すことは?

その当時としては最大級の揺れであり、ブロック塀倒壊やビルの破壊が印象に残っている。(仙台市・男性・無職)

瓦が落ち、頭部から失血している人を見た(仙台市・男性・無職)

地震当時、名掛丁アーケード街を歩いていたら、突然だるま落としに遭ったような感覚(床が急になくなったような)の後に激しい横揺れが襲ってきた事を覚えています。急いで自宅(花京院)に戻ってみると、意外に倒れていたのはこけし1本だけでしたが、電気、ガス、水道が停止し困りました。旧仙台市電循環線近辺は地盤が固く地震には強いという事を後で知りました。(仙台市・男性・自営業)

所轄消防署員としてコンビナートに最先着(宮城県塩釜市・男性・無職)

「しばらく水風呂で我慢した」

停電、断水等インフラストップで生活不便。建物、倉庫の倒壊で仕事ができない。(仙台市・男性・会社役員)

職場の鉄筋コンクリートの建物自体がミシミシミシと音を立てた。ガスも電気も止まり5階建ての宿舎の水も止まりました。子供たちは、しばらく水風呂で我慢しました。(仙台市・男性・無職)

当時は神奈川県に住んでいたが、めまいかなと思ったのが地震であった。実家が被害に遭ってすぐにカセットコンロや日持ちのする月餅などを送って喜ばれた。と同時に宅急便が機能してそれがすごいと思った。(仙台市・女性・無職)

ブロック塀の施工基準が見直しになった。(仙台市・男性・自営業)

避難場所でもある小学校が被災し使えなく、新たな避難場所の確保で困ったことや、水、食料の確保、停電などいろいろありました。(仙台市・女性・主婦)

大工をしているので、かなりの家を改修してあげた。(仙台市・男性・自営業)

この地震の後に仙台に転勤が決まりました。地震の多い地域だと聞き、転勤先の家の寝室に家具を置かないなどと配慮しました。(仙台市・女性・主婦)

安否確認のため、公衆電話に長い行列ができた=(1978年6月14日河北新報)

「もらい湯をした」

ライフラインが使えなくなり、もらい湯(お風呂)をした事を思い出す(仙台市・男性・無職)

停電 断水がもたらす日常が奪われる事。(仙台市・女性・無職)

停電、都市ガスが長い間止まり、子どもが幼稚園に通っていたので、お弁当を持たせるのに、大変でした。ガスが止まっていたので、お風呂にも入れませんでした。(宮城県利府町・女性・主婦)

集合住宅に住んでいて、生後3カ月の娘を抱き上げ階段を下りようとして、下から3段目で足を踏み外し、とっさに娘の頭を守るため、肘をコンクリートにつき、娘の頭を浮かせて守りましたが、自分の左肘が切れて今でも傷跡が残っています。また消火器が倒れて泡が一面に吹き出ました。(仙台市・女性・主婦)

「1人暮らしの母親と連絡が取れなかった」

当時、私は、長町にある宮城県立聾(ろう)学校に勤務しておりましたが、1週間ほどJR通勤(田尻駅から長町駅)ができなくなり、自家用車通勤となり、かなり時間を要したことを覚えています。また、当日は、寄宿舎の舎監をしておりましたので、耳の不自由な子どもたちと一緒に一夜を過ごしました。テレビやラジオからの情報が入らないため、子どもたちはとても不安そうでしたが、何とか過ごすことができました。

食事や水は栄養士の方や当時の関係者の方々の配慮により何とか確保することができました。幸い、電話は通じていたように思いますので、可能な限り子どもたちの家庭との連絡を取り合ったように覚えています。(宮城県大崎市・男性・スクールカウンセラー)

停電、交通停滞(宮城県石巻市・男性・自営業)

長町付近で車を運転していたら、ユラユラ振られる感覚がした。すぐ止めて周りを見たら電線が大きく揺れて大きな地震と分かった。市中心部に向かって走らせて、職場にいた妻を車に乗せ、塩釜の自宅に向かった。(宮城県塩釜市・男性・無職)

電話が通じず1人暮らしの母親と連絡が取れなかった。(仙台市・男性・無職)

地震の影響で断水が発生し、給水車が出動した=仙台市内(1978年6月13日河北新報)

「生徒がパニックになった」

体育館で部活動の指導中に強烈な地震が来て、生徒がパニックになった。校庭に避難したら地面がもぐらたたきのようにふくれ、木造校舎の屋根が波打った。校長の指示で、津波を警戒し生徒を下校させなかった。(宮城県石巻市・男性・無職)

いとこの結婚式が終わり、二次会の実家のボロ家がミシミシと壊れる寸前のように思え、すぐリンゴ畑に逃げ込んだ記憶がある。(宮城県亘理町・男性・主夫)

自宅(木造平屋の借り上げ社宅)は家族が実家に帰省中、自分は盛岡に出張中で、幸いけが人はいなかったが家具が倒れ、ガラスが割れ、片付けに1人で1週間近くかかった。(仙台市・男性・アルバイト)

自営業のため、店内機材が倒壊、破損し、電気、水道、ガソリン等の復旧にかなり時間がかかった事です。(宮城県登米市・男性・自営業)

当時、友人と旅行中、永平寺を見学している時に揺れを感じました。金沢のホテルに戻って宮城で地震があった事を知りました。仙台に新幹線で戻る時、名取辺りから徐行運転でした。私の家は崖の下で避難命令が出て、父の実家にしばらくお世話になりました。(仙台市・女性・無職)

地震は失うものが多い。(仙台市・男性・主夫)

停電や家財の散乱。(宮城県岩沼市・男性・パート従業員)

【80代以上】「宮城県沖地震」と聞いて思い出すことは?

水道、ガスなどの長期停止(仙台市・男性・無職)

強い揺れで、この世の終わりかと思った。(宮城県岩沼市・女性・無職)

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