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宮城県沖地震 語り継ぐ「わたしの記憶」<アンケート詳報 40~50代編>

 1978年6月12日に発生した宮城県沖地震について、河北新報の「読者とともに 特別報道室」のLINE(ライン)を通じて寄せられたアンケートの地震体験談を詳しく紹介します。被災者の経験に耳を傾け、再び襲ってくるであろう災害に備える機会にしませんか。

 宮城県沖地震は1978年6月12日午後5時14分、宮城県沖の深さ40キロを震源に発生しました。マグニチュード(M)は7・4。当時の基準で震度5(現在の5強、5弱に相当)を、大船渡、石巻、仙台、新庄、福島で観測しました。死者は28人で、ブロック塀や石塀の倒壊などによる圧死が相次ぎました。宮城県内を中心に負傷者は1万人超。約7500棟の建物が全半壊し、国が1981年に建物やブロック塀の耐震基準を見直す契機となりました。

[アンケート概要]2023年5月19~22日、「読者とともに 特別報道室」のLINE(ライン)で友だち登録する人に実施し、247人から回答がありました。宮城県沖地震を体験し、記憶がある方に対し、思い出すことや、困ったことなど具体的な記憶を尋ねました。

信号機が消え、身動きが取れない車=仙台市青葉区の東二番丁通(1978年6月12日)

【40代】「宮城県沖地震」と聞いて思い出すことは?

町営の住宅団地に住んでいたので、みんなが建物から出てきたのに、母がいなくて、家を見に行ったら食器棚を押さえていたこと。(仙台市・女性・会社員)

家の窓ガラスが外れて落下して割れていた。ブロック塀が道路に倒れて車が通れなくなっていた。夜はろうそくで過ごした。(宮城県塩釜市・女性・アルバイト)

自身は4歳、買い物帰りの母の自転車に同乗している最中に地震に遭いました。揺れで藪(やぶ)に自転車が倒れたことを覚えています。小1の姉は家で一人、留守番。昼寝をして目が覚め、友だちの家に向かう途中で地震に遭い、通りがかりの小学生(高学年の女の子たち)が姉を囲んで守ってくれたそうです。姉を心配し、母が急いで家に帰ろうとしましたが、手前の家のプロパンガスが爆発して道路が通れず、遠回りして帰宅しました。姉が出かける前に昼寝していた部屋は、たんすが倒れていて、もし眠ったままなら下敷きになっていたかもしれなかったことを、後に親に聞きました。(仙台市・女性・主婦)

当時3歳だったが、地震の揺れで電線が激しく波打っていた記憶がある。(仙台市・男性・会社員)

まったく覚えていない。(宮城県七ケ浜町・男性・会社員)

炎上し、倒壊した仙台市ガス局の施設。市内のガス管も切断され、供給の完全復旧には約1カ月を要した=1978年6月、仙台市宮城野区幸町

「祖父が地震の事をよく話してくれた」

まだ子供の頃だった。隣県住み。地震の怖さを体感した記憶。高台に住宅地が多い仙台の街並みで、ブロック塀が崩れた衝撃が一番大きい。秋田沖地震だったかどうか既に定かではないが、河原の土手で遊んでいた時の突然の揺れで地面が波打ったような状況に、かなり衝撃的だった。 スマホだのパソコンだのない時代で、身の安全を守る事しかできなかった記憶。(山形市・女性・会社員)

私は2歳だったので記憶はないのですが、祖父が地震の事をよく話してくれていました。住んでいた家が壊れて祖母の実家に避難した事。車で避難する際、寝ていた私が地震の揺れで踊るように跳ねていた(少し盛っているのではないかと思っています)こと。ブロック塀の下敷きになって死んだ人がいること。(大阪府・女性・主婦)

私自身の誕生日でした。父の仕事に付いて行き、車の中で地震を迎えました。すごい揺れを感じました。家は物が落ちていてひどい状態だった事を記憶しています。(宮城県色麻町・男性・会社役員)

親に、おんぶされて、逃げたよ。(宮城県石巻市・男性・自営業)

「怖くて不安な夜を過ごした」

幼少期でしたので、記憶が少ないですが、ブロック塀が倒れた、倒壊した家があったのは記憶にあります。(仙台市・女性・パート従業員)

確か夕方に発生。祖父に抱きかかえられて庭に飛び出した記憶。大きな水槽が庭にあって金魚100匹ほどを飼っていましたが全滅しました。(北海道・男性・会社員)

当時4歳で別の地域に住んでいましたが、仙台にある父母の実家へ行ったのを覚えています。父の実家は風呂場のタイルが割れて飛散した程度でしたが、親戚の家は大黒柱がへし折れて倒壊寸前にもかかわらずそこで生活しており、「こんな状態でも人が住めるんだ?」と妙な感心をしてしまいました。(仙台市・男性・自営業)

子どもの頃だったのではっきりした記憶ではないのですが、1人で留守番をしていて大きな揺れで動けず、とっさに小学校で訓練をしていた通りテーブルの下に潜り震えていました。停電の暗闇の中、ラジオが流れていて余震が来る度、とても怖くて不安な夜を過ごしました。(仙台市・会社員)

幼かったが、食器が落ちてきて足を切ったのは覚えています。(仙台市・女性・パート従業員)

倒壊した宮城交通佐沼営業所の待合室(1978年6月13日河北新報)

【50代】「宮城県沖地震」と聞いて思い出すことは?

当時の宮城県立盲(もう)学校に在籍していた、当時小学部2年の妹の安否が、なかなか分からなかった。(宮城県石巻市・男性・公務員)

電気は翌日に復活した記憶があります。(仙台市・男性・会社員)

電気は夜11時すぎに復旧したが、ガス、水道の復旧まで日数がかかった。(仙台市・男性・無職)

母と電車に乗っていた。目の前に立っている人が急に揺れだし、踊りだし、雪崩のように倒れていった。電車を降りてぐちゃぐちゃになった線路脇をみんなで一列になって次の駅まで歩いた。飼っていた犬が心配で帰宅したら、倒れた三面鏡のスツールが入る部分にちょうどはまっていて助かった。違う地震の時は入浴中で、波打つお風呂でおぼれそうになり、母が慌てて助けに来た事を覚えています。(仙台市・女性・パート従業員)

「土手が地滑りを起こした」

プレハブ住宅の需要の増加。(仙台市・男性・会社員)

当時、岩手にいても信号機が揺れるほどの地震でした。(宮城県塩釜市・男性・自営業)

そのおかげで防災意識が高まった。(仙台市・男性・会社員)

ガスが使えなかった。(仙台市・男性・会社員)

停電や断水で通常の生活ができなかった。地震に対する恐怖。(仙台市・男性・会社員)

小学5年生で、野球練習中の守備(ライト)の時、後方数メートルの土手が地滑りを起こし、あわや巻き込まれそうになった。(仙台市・男性・公務員)

水道、ガス、電気が数日止まった。(宮城県富谷市・女性・パート従業員)

6月の頃、中体連の頃、2年生で補欠だったために汗かかず。五右衛門風呂がひび割れのため使えなくなったが、記憶に残るほど困らなかった。(仙台市・男性・会社員)

水道管の破裂で道路が水浸しになった仙台市内(1978年6月14日河北新報)

「フローリングの床が波打った」

当時は小学生高学年でちょうど学校は休みで自宅で体験。住居の物が倒れ、道路の地割れなどの記憶があります。(宮城県村田町・男性・会社員)

停電して夕方発生したので、夜飯が買ってこられパンを食べた記憶がある。避難訓練は学校でしていたが、不十分な訓練だったと今思えば感じる。(仙台市・男性・自営業)

発生当時、中学生。友人2人と当時の自宅マンション内に滞在中だった。フローリングの床が波打ち、とっさに食器棚を押さえた。室内の重いブラウン管テレビが左右に大きく動きながら停電でプツンと切れた様子が今も焼き付いている。(仙台市・男性・会社役員)

当時小学4年生でした。1人で在宅しており、布団をかぶって部屋にいました。2年生の弟はサッカークラブでグラウンドにいて、電信柱がぐにゃぐにゃ揺れたのを見て怖かったと話していました。自宅は物が落ちたり食器やケースなどが割れたりして片付けが大変でしたが、大きく崩れることはなかったです。近くの家の石塀が崩れたりブロック塀が崩れたりしているのをたくさん見ました。ニュースで建物が倒壊したりするのを見て、こんなことがあるんだと知りました。(宮城県多賀城市・女性・主婦)

ブロック塀が倒れた。(仙台市・男性・無職)

地震直後の仙台市役所の様子(1978年6月13日河北新報)

「子どもたちには『揺れが来たらブロック塀から離れるよう』話してきた」

当時、幼稚園児でした。月曜日だったと思います。休園日だったので、母と買い物に出かけようと自宅の前の国道45号線を横断中、強い揺れがありました。母は私を国道に置いたまま、自宅へ走りました。生まれて間もない妹が水槽のそば、3歳の弟が大きなたんすのそばでお昼寝をしていたからです。幸い、水槽もたんすも倒れることはなく、台所の皿やリビングのガラス棚が割れただけで、弟や妹はケガ一つしませんでした。まだ強い揺れが残る中、国道に1人残された私は、居合わせた親切なおばさんに自宅まで送り届けていただきました。今思うと、とても母らしい行動でした。その記憶が私には嫌な怖い記憶として残っています。私が母親になってから子どもたちには、必ず地震が来る、揺れが来たらブロック塀から離れるようにと、小さい頃から話してきました。東日本大震災時には、下校中だった娘が友だちを引っ張り、すぐにブロック塀から離れたことを話してくれました。また、高い位置には割れ物を置かない。寝室には倒れる物を置かない。常に実施していたので、全く自宅に被害はありませんでした。地震は経験しないと本当に分からないもの。そして、経験した人は伝えていくことが大切だと思っております。(仙台市・女性・パート従業員)

中総体で帰っていた。(仙台市・男性・自営業)

学校の昇降口にいて、下校の準備をしながら友人と話していた。ガラスの割れる音や、校庭にいた生徒の「地割れしてきた」という叫び声を聞いた。友人が自宅に電話をかけたがつながらず、不安そうに泣き出したので、なだめながら落ち着くのを待っていた。ブロック塀が倒れた家や瓦が落ちている家もあった。(岩手県一関市・女性・主婦)

「自動販売機が倒れてきた」

ブロック塀の倒壊、断水、家具の転倒。当時、アパートの最上階の5階に住んでいた。ダイニングキッチンのテーブル下に入って地震をやり過ごした。しょうゆの瓶が倒れて床にしょうゆがまかれてしまった。学校から帰って間もなくの時間帯で、遊びに出かけていた妹が離れていた所にいた。見つかるまで心配だった。(宮城県東松島市・男性・公務員)

家のブロック塀が崩れた。(仙台市・女性・パート従業員)

中学1年でしたが、もう帰宅しておりました。学校内で部活していた友人たちの話ですと、校庭にひびが入ったりと、とても怖い思いをしたらしいです。(宮城県名取市・女性・会社員)

母と食堂にいるときに自動販売機が倒れてきたので、外にある軽トラックの荷台に乗せられしがみついていた。揺れが激しく電信柱が倒れてきそうでした。ブロック塀の倒壊が多く、ほとんどの瓦屋根が落ち、家の庭が地割れしていてとても怖かった記憶がいまだに忘れられません。(仙台市・女性・パート従業員)

都市ガスがストップし、風呂に入れなかった。(仙台市・男性・無職)

当時、小学生だったので困った記憶はないが、停電によりろうそくで灯を確保したり、給水車の列に並んだ記憶はある。(宮城県大衡村・女性・パート従業員)

小学校1年生、母のケツにしがみついていた。車庫の車はガンガン揺れて、どぶ川から、水があふれた。臭かった。(宮城県石巻市・男性・会社員)

北上川に架かる国道346号線の錦桜橋は一部が崩落した=宮城県中田町、東和町(ともに現登米市、1978年6月14日河北新報)

「停電が一番つらかった」

食料の買い出しが困難になったことと、停電が一番つらかった。(仙台市・男性・会社員)

それまでに経験した事がない揺れで、当時中学生で中総体の練習中でした。校舎から生徒たちが逃げて来ました。校庭に亀裂が入って近づかないように指示されたのを覚えています。両親が仕事でいなくて弟、妹が心配で急いで帰宅しました。近所のスーパーが、たくさん客で混んでいて、私が小遣いで食べ物を買いに行った時には棚が空になっていて煎餅とクラッカーくらいしか買えませんでした。その後、両親が帰って来て、一緒に割れたガラス等を片付けた記憶があります。そして今、結局、東日本震災で両親たちも亡くし、家等全てなくしたので生まれ育った石巻を離れて仙台で暮らしています。(仙台市・女性・主婦)

庭にあった金魚の池が波打ってあふれていた!(仙台市・男性・公務員)

ブロック塀の危険性が騒がれ始めたのも、これ以降の気がする。(宮城県利府町・女性・無職)

「大工さんが屋根にしがみついていた」

ライフラインのストップ。父が帰って来られなかった。小学生だったので、作文を書かされた。防災教育が多くなった。(仙台市・女性・公務員)

当時は小学生で県外(福島県)に住んでいたが、下校途中の大きく揺れる電線と、住宅建築現場の大工さんが屋根にしがみついていた光景はいまでもはっきりと覚えている。(宮城県大和町・女性・主婦)

当時中学生で、体育館で部活動の最中でした。地震が発生し誰かの指示か自らか覚えていませんが、とっさにグランドピアノの下に潜り込みました。ある生徒は正門の太い門柱(石柱)にすがったと後から聞き、グランドピアノの下も門柱も倒壊の危険があるので良くない判断だったと思い、ゾッとした記憶があります。(宮城県大崎市・女性・主婦)

その年の3月末に引っ越し仙台にはいなかったが、東京でも長い大きな揺れを感じた。兄がまだ仙台にいて心配した。その兄から電気の復旧が早かったことを聞いた。東照宮の石灯籠が倒れ,石段もずれた。ブロック塀が倒れたようで怖かった(当時はいっぱいあった)。などなど。(仙台市・男性・団体職員)

小学校低学年でしたが、揺れと周りの風景を鮮明に覚えています。電線が波打ち、ガタガタという音がして友だちと弟と公園でうずくまっていたことを思い出します。(宮城県多賀城市・女性・アルバイト)

「走って畑に逃げた」

中学校から家までの帰り道、自転車に乗っていられないくらいのすごい揺れでぼうぜんと立ち尽くしていたら、目の前のブロック塀が崩れ落ちた。とても怖かったです。(仙台市・男性・公務員)

当時、小学校低学年。校庭で野球をしていて、突然の揺れ&地割れに驚いた!!ライフラインが使えないのも…地味に不便。(仙台市・男性・無職)

初めて経験した大きな地震だったという事くらいしか覚えていない。(福島県新地町・女性・パート従業員)

同級生がブロック塀の倒壊に巻き込まれた。(仙台市・女性・アルバイト)

縦揺れがすごい感じがしました。(仙台市・男性・会社員)

家の中がぐちゃぐちゃになった。走って畑に逃げた。(宮城県白石市・女性・会社員)

小学校低学年の時に、宮城県沖地震を体験しました。記憶にあるのは、ブロック塀やガスボンベがたくさん倒れたことです。(宮城県多賀城市・女性・パート従業員)

ブロック塀は危険。(仙台市・男性・無職)

「ラジオから流れてくるアナウンサーの声だけが頼りだった」

緑ケ丘地区に住んでいましたが、被害の大きい場所でなく南側の方でしたが、夕方、近所の子と遊んでいました。記憶に残る初めての地震でした。何も訓練体験のない無知な小学生の自分が、もしかしたらブロック塀の下敷きになっていたかもと思います。実際に背丈ほどの塀が倒れる様子を見ています。近所の子の家はかなり家具が倒れていましたが、外にいて、たまたま運が良かっただけとも考えます。(宮城県名取市・女性・公務員)

停電の中、家族でろうそくを囲み、ラジオから流れてくるアナウンサーの声だけが頼りでした。(仙台市・男性・会社役員)

当時、私は、福島県いわき市に住んでいました。家から見えた電柱がしなるように揺れていた記憶があります。(仙台市・女性・パート従業員)

停電になり、車のヘッドライトの明かりで片付けをしたり、まだどこでも井戸水を使っていて水をくみ上げるポンプが作動せず水が出なかったのですが、うちの庭に1カ所、水道水が出る所があり、近所に水を提供しました。(仙台市・女性・パート従業員)

宮城県内でのブロック塀の破壊による人身事故。(福島県新地町・男性・会社員)

ブロック塀が倒れた。(宮城県利府町・女性・パート従業員)

土砂崩れと地面の割れ。(仙台市・男性・会社員)

電気、水道、ガス、生活インフラのストップが、約1週間続いた。(仙台市・男性・会社員)

泉市(現仙台市泉区)で給水車を待つ長い列(1978年6月14日河北新報)

「校舎が壊れた」

当時は福島県に住んでいたので特に困ったことはない。会津もかなり揺れたようだったが陸上の練習をしていたので、揺れは感じなかった。(宮城県多賀城市・男性・会社員)

夕方の時間帯の地震。当時小さかった自分は、テーブルの下に隠れていた事を覚えています。(宮城県加美町・男性・パート従業員)

あれを体験したからもう一生大丈夫と思っていた。東日本大震災が来ちゃって、あれ(78年)はかえって良くない錯覚を惹起(じゃっき)していたかもしれないと思った。(宮城県岩沼市・男性・自営業)

小学生の時に体験しました。校舎が壊れて、文化財に指定されていた、現在の教育資料館で勉強したことが思い出です。(宮城県登米市・女性・パート従業員)

ブロック塀が倒壊し下敷きになった小学生の女の子が亡くなった。近所の物産店が倒壊し、そこのおばあさんとお客さんが亡くなった。(宮城県松島町・女性・会社員)

仙台市立愛宕中2年生でした。中総体の応援の後、帰宅して、間近に迫った中間考査の勉強をしていた。ちょうど理科第2分野の地学で前震や余震、P波やS波の学習をしていて揺れたので、驚いた。電気や水道の復旧は早かったが、ガスが使えず、上杉や沖野の親戚宅にお風呂をもらいに何度も行った。(仙台市・男性・会社役員)

「水が出なくて大変だった」

停電や断水があった。余震が怖かった。(宮城県東松島市・女性・農業)

小学生で下校途中でした。近くに別の小学校があり、先生方がグラウンドの真ん中に避難していた光景が残っています。(宮城県川崎町・女性・公務員)

1停電 2倒れたブロック塀(仙台市・男性・公務員)

当時小学1年生で、秋田市在住でしたが、外で遊んでいる時に揺れを感じたことを記憶しています。(仙台市・女性・パート従業員)

停電、家屋の倒壊、ブロック塀崩壊(宮城県大崎市・女性・会社役員)

立っていられないほどの体験を初めて感じた。(宮城県栗原市・男性・会社員)

水が出なくて大変だった。(仙台市・男性・会社員)

インフラが止まって大変だった。(仙台市・男性・会社員)

当時中学生で、中学総合体育大会の応援を終えて自宅に帰って震災に遭った。停電でしばらく復旧しなかった記憶があります。(仙台市・男性・会社員)

小学生時代に県外にて体験。ブロック塀下敷きのニュースを覚えている。その後、コンクリートではなく生け垣を推進していると聞いた。(仙台市・無職)

仙台港でタンクからあふれた原油(1978年6月13日河北新報)

「親が七輪で煮炊きしていた」

当時、小学1年生でした。母親の「家つぶれる~!」と言いながら、柱にしがみついている光景がいまだに脳裏に残っています。地震後は、家族から家の中を片付けるから、外に出てろって言われ、近所の空き地にいたが、恐怖しかなかった。夕飯は、ろうそくをともしながら、おにぎりを食べた。次の日の朝に信号機が点灯してるのを見て安心できた。学校は臨時休校となったが、連絡は電話とかではなく、誰かがお知らせに回って来た。その前の年の震度4の地震も記憶に残っています。(仙台市・女性・公務員)

夕方4時頃、習い事の教室で被災。自宅はガスが止まり、七輪で煮炊きを親がしていた。ブロック塀がかなり被害があった印象。(仙台市・女性・アルバイト)

「すぐ近くのブロック塀にしがみついた」

当時小学生でした。岩手県に住んでいましたが、あのような大きな揺れは生まれて初めてで、母親にしがみついた覚えがあります。(仙台市・女性・パート従業員)

当時9歳。学校給食センター被災で、2年ほどレトルト食品の配食。水道復旧まで、バケツ、ポリタンクを持って給水場に通う。小学生の私も運んだように記憶している。(仙台市・男性・公務員)

当時小学1年生でした。友だちと自転車遊びをしていて、突然の激しい揺れに立っていられなくて、すぐ近くのブロック塀にしがみついたのを覚えています。ブロック塀の危険度など何も知らなかった時のことです。沿岸部に住んでいましたが、津波のあるなしの心配を大人たちはしていたのか、記憶にありません。震災の時はかなり浸水した地域と聞いています。(仙台市・女性・主婦)

小学生だったので1人で家にいて怖かった記憶しかなく、井戸があったしLPガスだったせいかあまり困った記憶もありません。家の中はぐちゃぐちゃになりましたが、仙台駅に近い場所だったので地盤もしっかりしていた方かと思います。ただその経験があるので東日本大震災の時は、水くみ道具に電池などの防災グッズをしっかり用意していましたし、棚が倒れないような対策などもしていました。(仙台市・女性・パート従業員)

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