発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>道嶋氏一族の活躍
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第4部 律令国家の完成と石巻地方の支配
<鎮守府の高官、副将軍も>
京(みやこ)の中央官として道嶋嶋足(みちしまのしまたり)が大出世すると同時に、地元の牡鹿郡にいた一族も出世します。
■三山、次々に昇進
陸奥国牡鹿地方の道嶋氏の中心的存在が道嶋(みちしまの)宿禰(すくね)三山(みやま)という人物です。三山は天平神護元(765)年12月に外従五位下を授けられたのが初見で、神護景雲元(767)年7月に地方豪族としては異例の陸奥(むつの)少掾(しょうじょう)(国司の三等官の一人)に抜擢(ばってき)されます。
国司は通常、中央からの派遣官ですから地元の豪族が任命されることは異例です。これも、中央にいた嶋足の影響と考えられます。その3カ月後の同年10月、山道地方の栗原に新しい城柵である伊治(これはり)城(じょう)が完成すると、造営事業に現地で中心的役割を果たしたことを賞されて内位の従五位上を賜(たま)い、この年の暮れ、道嶋宿禰嶋足が陸奥国大国造に、三山が国造に任じられています。
このあと陸奥大掾(だいじょう)となった三山は、翌、神護景雲2年2月に鎮守軍監(ちんじゅぐんげん)、同3年2月に陸奥員外介(いんがいのすけ)に昇進し、国司および鎮守府(ちんじゅふ)(陸奥国を守る軍事機構)の高官として、道嶋氏の陸奥国での中心人物であり続けます。
「続日本紀」宝亀2(771)年11月条に「桃生郡の人、外従七位下牡鹿連猪手(おじかのむらじいて)に道嶋宿禰の姓(かばね)を賜う」(原文は漢文)の記事があります。牡鹿郡だけではなく桃生郡にも牡鹿連氏がいて、道嶋氏の同族であったことが分かります。牡鹿郡の道嶋氏が同族を桃生郡に移住させ郡領(ぐんりょう)(郡の長官)としたのかもしれません。
次に「続日本紀」に登場するのが道嶋大楯(みちしまのおおたて)です。
伊治城完成後、国家はさらに北方に版図(はんと)を拡大しようと覚鱉城(かくべつじょう)造営を計画します。宝亀11年、計画を進めるため伊治城に来ていた按察使(あぜち)(陸奥出羽の最高長官)紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡大領道嶋大楯を上治(かみはり)郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が殺害し、伊治城と多賀城を焼き打ちする事件が勃発します。有名な伊治公呰麻呂の反乱です。
■元は移民系氏族
「続日本紀」では、牡鹿郡の長官である道嶋大楯がことあるごとに呰麻呂を夷俘(いふ)としてさげすんだことを記しており、道嶋氏がもともと蝦夷(えみし)ではなく、移民系氏族であることを裏付けるものでもあります。奈良の平城宮跡から天平勝宝年間(749~57年)に相当する「丸子豊宅 丸子豊額 丸子友注 丸子友依」、「丸子□□ □子刀千 丸子広宅 丸子大田而 丸子豊宅」と名前が記された習書木簡(しゅうしょもっかん)(文字を練習した木の札)が出土しています。この木簡に登場する「丸子大田而(まるこのおおたて)」が道嶋大楯と考えられています。
蝦夷の反乱を武力で抑え込む国家は胆沢(いさわ)(岩手県奥州市辺り)の地も手中に入れるために阿弖流(あてる)為(い)らと戦闘を繰り広げます。
■蝦夷征討に参戦
その戦闘に政府軍として登場するのが道嶋宿禰御楯(みたて)です。延暦8(789)年、紀古佐美(きのこさみ)の蝦夷征討軍が阿弖流為らの蝦夷軍のため、衣川付近で手痛い敗北を喫した時、別将(べっしょう)道嶋御楯が同じく別将出雲(いずもの)諸上(もろかみ)とともにかろうじて敗残兵を率いて帰還しています。
その13年後の延暦21年、鎮守軍監であった道嶋御楯は、嶋足以来の大国造に任じられました。さらに2年後の延暦23年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられた征夷軍の副将軍に、また、大同3(808)年、鎮守府の鎮守副将軍に任じられています。これも現地の豪族としては破格の人事でした。
ところで、丸子・道嶋氏はどこから来た一族なのでしょう。かつて、道嶋氏は元々蝦夷なのか、それとも移民なのかという議論がありました。
東北学院大名誉教授の熊谷公男さんは、嶋足の改賜姓からわかるように、丸子、牡鹿連、牡鹿宿禰さらに道嶋宿禰という、丸子氏の「無カバネ姓↓連姓↓宿禰姓」へ変化する改賜姓のあり方が蝦夷姓の改賜姓にはみられないこと、蝦夷に一般的に与えられる「君(きみ)(公(きみ))姓」を与えられなかったこと、「丸子」は東国を中心に陸奥南部にかけて存在することなどから、非蝦夷説=移民系氏族説を支持しました。
そして『甲斐国(かいのくに)一之宮浅間(せんげん)神社誌』の「古屋家(ふるやけ)家譜」の研究成果から、丸子氏はもともと上総(かずさ)の伊甚屯倉(いじみのみやけ)で丸子連-丸子-丸子部の氏族の、丸子連の配下にあった有力農民層であったと論じました。さらに文献と考古学の成果から7世紀中葉から後半に、中央政府の主導の下に国家的施策として移住してきたとみています。
奈良の宮都平城宮からは30万点を超える木簡(文書伝達などに用いた木の札)が出土しています。その多くが木の「削屑(けずりくず)」ですが、その中に「牡鹿連」「牡鹿」や「牡□」と書かれたものが複数出土しています。まだ、整理途中で公表されていないものもありますから、丸子・牡鹿連・道嶋氏の情報がさらに分かるかもしれません。
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