発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>律令国家の版図拡大政策と蝦夷
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢
<38年戦争発端は桃生城>
今回から第5部「律令国家の蝦夷(えみし)支配と軋轢(あつれき)」に入ります。第5部では聖武(しょうむ)天皇が譲位した後の奈良時代後半から桓武(かんむ)天皇による平安京遷都後の平安時代初め頃までを取り上げます。
■幾度も政権交代
奈良時代後半も中央では目まぐるしく政権交代が起こった時代です。天皇と国家中枢の都市である都城も平城京から恭仁京(くにきょう)、難波(なにわの)宮(みや)、紫香楽宮(しがらきのみや)、平城京と転々とし、桓武天皇が長岡京(ながおかきょう)、そして平安京に遷都し、ようやく1000年の都として落ち着きます。
その頃の東北地方や石巻地方がどのような状況だったのか、遺跡の発掘調査成果や「続日本紀(しょくにほんぎ)」「日本後紀(にほんこうき)」の文献の研究成果から紐解いていきたいと思います。
具体的な事象に入る前に、この時代の概要をお話ししておきましょう。
仏教による鎮護(ちんご)国家を進めた聖武天皇は病気を患い、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元(749)年、光明皇后との間にできた娘の孝謙(こうけん)天皇に位を譲ります。光明皇太后の後ろ盾を得て政権を握ったのが藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)です。仲麻呂は天平15(743)年に参議、天平勝宝元年に大納言、続けて光明皇太后の意思伝達機関である紫微中台の長官と中衛(ちゅうえ)大将を兼ねました。政務を司る太政官(だいじょうかん)で上位にいた橘諸兄(たちばなのもろえ)、藤原豊成(とよなり)を天皇の不敬発言や橘奈良麻呂(ならまろ)の変などで次々に失脚させ、天平宝字4(760)年には太政大臣となり、太政官の最高権力者となります。
仲麻呂の権勢も長くは続きませんでした。後ろ盾の光明皇太后が亡くなると力を弱め、孝謙上皇の病を看病した道鏡にその座を奪われそうになります。天平宝字8年、道鏡排除を望んで起こした藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で敗れて亡くなってしまいます。
仲麻呂の乱後に孝謙上皇が重祚(ちょうそ)(再び天皇に即位すること)すると道鏡は大臣禅師(ぜんし)、さらに太政大臣禅師に進み、この年、法王に就任します。その道鏡も皇位を狙いますが宇佐八幡神託(うさはちまんしんたく)事件で阻まれ、翌年、称徳(しょうとく)天皇が崩御すると失脚してしまいます。
■桓武天皇が即位
その後も天皇・皇太子が擁立されますが、安定せず、光仁天皇と渡来系氏族出身の高野新笠(たかののにいがさ)の子である桓武天皇が即位して落ち着きます。
神亀(じんき)元(724)年の海道蝦夷の反乱後、30年余り安定していた陸奥北辺の状況は、8世紀後半に入って大きく動きます。中央で藤原仲麻呂が権力を持つと、陸奥(むつの)守(かみ)として仲麻呂の四男藤原朝獦(あさかり)を送り込みます。朝獦は天平宝字2年、政府の方針を受け、国家の版図(はんと)(範囲)拡大の足掛かりに蝦夷との境界に新たな城柵として桃生城と雄勝城を造営します。
さらに桃生城完成から8年後の神護景雲(じんごけいうん)元(767)年、栗原に伊治城を造営します。桃生城と伊治城は陸奥国の海道・山道両地域の北方に勢力を拡大するための軍事基地です。それまで温和な関係であった蝦夷もいよいよ自分たちの環境が脅かされる状況になってきます。
■海道の蝦夷反乱
ついに、宝亀(ほうき)5(774)年、海道の蝦夷が反乱し、桃生城を焼き討ちする事件が勃発します。政府は軍隊を送りこれを鎮めます。また、宝亀11年に、今度は山道地方の伊治城で伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が按察使(あぜち)紀広純(きのひろずみ)と牡鹿郡大領(たいりょう)道嶋大楯(おおたて)を殺害し多賀城まで攻め入る反乱を起こします。
その後、蝦夷との争いは山道地方で継続し、胆沢の地で政府軍と阿弖流為(あてるい)らとの戦乱が繰り広げられます。延暦(えんりゃく)21(802)年、奥州市に胆沢(いさわ)城、翌年盛岡市に志波(しわ)城を造営し蝦夷との闘いが収まっていきます。光仁(こうにん)2(811)年、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさったい)・幣伊(へい)の蝦夷を討って征夷が終焉を迎えます。この宝亀5年から続いた国家と蝦夷との戦いを38年戦争と呼びます。
実際には38年間、毎日戦争状態が続いたわけではなく、反乱ごとに政府に鎮圧され収束しているのですが、争いが集中した時代として古代国家が呼称したものなのです。
国家と蝦夷の38年戦争の始まりは石巻地方の「桃生城」で起こったものです。伊治公呰麻呂の乱の現場は道嶋(みちしまの)宿禰(すくね)三山(みやま)が主として造営した伊治城であり、殺害された一人は道嶋大楯でした。胆沢地方での戦いに参戦し征夷大将軍坂上田村麻呂の副将軍が道嶋宿禰御楯(みたて)です。このように、8世紀後半から9世紀初めの東北の戦乱に石巻地方が深く関わっていたことが分かるのです。
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