東北帝大「学部疎開」裏付け資料見つかる 当時の学生らの様子知る手がかりに
太平洋戦争末期の1945年6月、本土空襲に備え、東北大の前身である東北帝国大が学部機能の一部を当時の宮城県志田郡志田村(現大崎市)に移転したことを裏付ける資料が発見された。「学部疎開」を公的に示す資料が確認されたのは初めて。東北大史料館の加藤諭准教授(歴史学)は「これまで曖昧だった学部疎開の解明につながる」と期待する。
(報道部・武田俊郎)
終戦2ヵ月前、移転先は現存する集会所
見つかったのは、現在の法学部と文学部に当たる法文学部の「荒田目(あらだのめ)分室」で勤務する事務嘱託職員に、志田村で運送会社を営んでいた加藤栄之丞氏(1904~87年)を充てる人事異動の記録。「任免」と呼ばれる文書で、日付は終戦の2カ月半前の45年6月1日。
広浜嘉雄学部長が総長に事務嘱託の増員を上申する形で、「右ハ志田郡志田村ニ於ケル本学部研究室分室ノ事務ヲ嘱託スルモノナリ」と明記されている。
東北大東北アジア研究センターの荒武賢一朗教授(地域史)が2022年度、大崎市教委の委託を受けて栄之丞氏の残した資料を調査。学部長が分室の開設に尽力した栄之丞氏に事務嘱託を引き受けるよう依頼する文書を見つけた。
荒武教授に協力を依頼され、史料館の所蔵品を調べていた加藤准教授が今月1日、「任免」の原本を探り当てた。
遺族が保管する栄之丞氏の日誌によると、分室が置かれたのはJR陸羽東線西古川駅近くの荒田目神社境内にある「一徳会堂」。栄之丞氏が整備した集会所で、今も住民が利用する。
加藤准教授は「東北大も被災した仙台空襲(45年7月10日)などで、学部疎開の資料は散逸したと思われていたが、今回発見した任免は、学部の分室が実在したことを公的に裏付ける歴史的にも貴重な資料。当時の大学職員や学生の様子を知る手がかりにもなる」と期待する。
戦争に翻弄された学生生活の一端浮かび上がる
看板や大学関係者の手記など既存の資料では判然としなかった東北帝国大法文学部の「学部疎開」が、東北大の公的資料で初めて確認された。今回の人事異動記録の新発見に導いた調査では、戦争に翻弄(ほんろう)された当時の学生生活の一端も改めて浮かび上がった。
「この看板がほぼ唯一の物証でした」
色あせた高さ約120センチ、幅約30センチの厚手の板に「東北帝国大学法文学部 研究室荒田目分室」と毛筆で書かれた看板を手に、東北大史料館の加藤諭准教授(歴史学)が説明した。看板は大崎市の荒田目神社境内に現存する「一徳会堂」に掲げられていたとみられる。
終戦直前に分室の事務嘱託に採用された加藤栄之丞氏の長男晴彦さん(90)=大崎市=が約25年前、父の遺品を整理する中で発見。「東北帝国大学学徒隊」と書かれたもう1枚の看板と一緒にその頃、東北大に寄贈していた。
人事異動記録を探し当てるきっかけは、東北大東北アジア研究センターの荒武賢一朗教授(地域史)による「加藤家文書」の調査。栄之丞氏が収集執筆した主に明治から昭和期の資料を分類した。
荒武教授は「地域のリーダー的存在だった栄之丞氏が請われて学部疎開に協力した経緯を記した大学関係者の手記、出征兵士の見送りを促す町内会の回覧など、戦時下の様子も多面的に伝えている」と評価する。
分室の存在をうかがい知る糸口は学内ではほとんどなく、1953年発行の「東北大学法文学部略史」に収録された終戦前後の学部長広浜嘉雄氏の手記ぐらいだった。手記には学徒動員で多くの学生が出征し、残った学生が「援農」として県内の農地に派遣された様子が記されている。
分室が開設された当時、旧制古川中1年だった晴彦さんは「学生は農家約20軒に分宿し、昼は援農、夜は分室で勉強していた」と記憶する。「仙台空襲(45年7月)の夜、分室近くの渋川の堤防から仙台上空が燃える様子が見え、翌日も真っ黒い雲が覆っていた」と振り返った。
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