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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方>海道蝦夷、桃生城を襲撃

桃生城跡西脇殿の柱の断面写真。焼けた柱の跡に土壁も混入して発見された(東北歴史博物館提供)
桃生城跡から出土した焼けた土壁材の一部(東北歴史博物館提供)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<大半の建物 猛攻で焼失>

 天平宝字2(758)年、律令国家は牡鹿郡の北部に新しい軍事基地として桃生城を造営しました。桃生城は海道の蝦夷を統治し国家の版図(はんと)(領域)を拡大する前線基地として、北上川を望む石巻市河北町飯野中山に造られた城柵です。のちに律令国家と蝦夷の38年戦争と呼ばれる戦いの、最初の舞台となったのが、この「桃生城」です。

■中央政府に反意

 天平宝字3年に完成した桃生城は遺跡中央に儀式空間である国府型政庁を配置する国家施設として運営されました。地元の意見は反映されることはなく、中央政府の政策が実行されました。その結果、完成から10年程で不穏な動きが見え始めます。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」宝亀元(770)年8月の記事に、蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかんめいのきみうくつはう)が、突然、徒族(とぞく)を率いて賊地に逃げ帰ってしまいます。政府は使者を派遣して召還しようとしましたが聞き入れず、逆に一、二の同族を率いて、必ず城柵を侵すと揚言(ようげん)する事件が起こります。反意の原因は定かではありませんが、服属して協力した蝦夷への待遇が問題だったかもしれません。

■現地の治安悪化

 翌、宝亀2年に桃生郡の人、外従七位下牡鹿連猪手(おしかのむらじいて)に道嶋宿禰(みちしまのすくね)の姓(かばね)が与えられました。これが桃生郡の初見記事です。この記事から桃生郡は桃生城造営後まもなく建郡されたことがわかります。また、道嶋宿禰猪手は位階からみて桃生郡の郡領クラスにあたります。桃生城造営に協力した地元の蝦夷ではなく、道嶋一族が桃生郡も統治したと考えられます。

 宝亀5年の夏(旧暦の4~6月)、陸奥の蝦夷が騒動を起こし、公民は城柵の維持補修に駆り出されて耕作ができない状態となります。全国的な飢饉もあって、現地の治安がどんどん悪化していきました。陸奥守であった大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)は、蝦夷が野心を改めず、しばしば辺境を侵すとして、天皇に征夷の実施を訴えました。天皇は征夷もやむなしとして、7月23日に許可します。その2日後、天皇の勅許が届く前に海道の蝦夷が先手を打って、ついに反乱を起こします。

 宝亀5年7月25日、陸奥国言(もう)さく、「海道の蝦夷、忽(にわか)に徒衆(づしゅう)を発(おこ)して、橋を焚き道を塞ぎて、既に往来を絶つ。桃生城を侵(おか)して、其の西郭を敗る。鎮守の兵、勢い支ふること能(あた)わず。国司、事を量(はか)りて、軍(いくさ)を興こしてこれを討つ。但し、未だ其の相い戦いて殺傷する所を知らず」(原文は漢文)と「続日本紀」にあり、海道蝦夷の桃生城襲撃事件の勃発を報告しています。

 「続日本紀」には「西郭」から侵攻したことが記録されていますが、宮城県多賀城跡調査研究所による長年の発掘調査の結果、政庁をはじめその周辺の建物や住居のほとんどが焼失したことが判明しました。建物の柱はもちろんのこと、屋根瓦や土器なども焼けて変色していました。これらは蝦夷の攻撃の激しさを物語っています。

 また、多くの労力をつぎ込んで国家の権威を誇示する大規模な城柵を造営したにもかかわらず、蝦夷鎮圧後に東郭の新田東遺跡地区以外は復興・再建されませんでした。

■反乱の度に鎮圧

 蝦夷の反乱の報告を受けた光仁天皇は、坂東八国(関東地方)に援軍を送るよう勅(みことのり)を下します。陸奥(むつの)守(かみ)兼鎮守(ちんじゅ)将軍の駿河麻呂らは、反乱を起こした蝦夷がどこの地域の蝦夷なのか明確にできませんでしたが、天皇の譴責(けんせき)もあって、やむなく遠山村(登米)の蝦夷を討って終了しました。

 この宝亀5年の桃生城襲撃から始まり、東北の蝦夷を平定するまでの38年を「律令国家と蝦夷の38年戦争」と古代史では呼んでいます。実際には38年間休まずずっと戦争し続けたわけではありません。反乱の度に鎮圧・征夷を繰り返したものです。この歴史に残る舞台の始まりが石巻市にある「桃生城」からだったのです。

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