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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 伊治公呰麻呂の乱

伊治公呰麻呂の乱が起きた伊治城と焼き討ちされた多賀城の地図

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<国家に反旗 多賀城放火>

 宝亀5(774)年7月、海道の蝦夷によって桃生城が襲撃され、桃生城全体が焼失してしまいました。律令(りつりょう)国家と蝦夷の38年戦争の始まりの事件です。襲撃事件から3カ月後の10月、按察使(あぜち)大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の率いる軍が、歴代の諸将がいまだかつて進み討ったことのない陸奥国遠山村(登米市辺り)に進撃して蝦夷を制圧しました。同年11月、桃生城進攻の蝦夷を討った鎮守(ちんじゅ)将軍大伴駿河麻呂、紀広純(きのひろずみ)、百済(くだらの)王俊哲(こにきししゅんてつ)以下1790余人の将士に叙位・叙勲されています。

■征夷軍、苦しい戦

 海道の蝦夷の反乱は山道地方にも影響を与え、宝亀7年2月には、国家が陸奥国内から軍士2万人を発して山道・海道の賊(ぞく)の討伐が計画され、出羽国の軍士4000人も合わせて陸奥・出羽国の蝦夷を征討しています。4月に進軍が始まりますが開始早々征夷軍は苦戦を強いられ、下総(しもうさ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)国の騎兵の援軍を得て、出羽国志波(しわ)村(盛岡市周辺の蝦夷村)を討ちました。また、11月には陸奥国から3000人の軍を出し、「胆沢(いさわ)の賊」(岩手県奥州市周辺の蝦夷)を攻めた記事もあります。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」宝亀9年6月25日条に、蝦夷征討に功績のあった陸奥・出羽国司以下2267人に叙位・叙勲が行われ、2人の蝦夷系豪族も叙位されています。1人は吉弥侯伊佐西古(きみこのいさしこ)、もう1人は伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)です。2人とも地方の人ではほぼ最高位の外従五位(げじゅごい)下を与えられた服属した蝦夷です。俘(ふ)軍と呼ばれる蝦夷軍を率いて征夷(せいい)に協力したものと考えられます。

■大領ら2人殺害

 宝亀11(780)年2月、国家は山道の蝦夷の本拠である胆沢の地を攻略するため、新たに「覚鱉城(かくべつじょう)」の造営を計画します。天皇の許可を得た陸奥出羽按察使(陸奥、出羽両国の最高責任者)紀広純は3月22日、覚鱉城造営を進めるため、牡鹿郡大領(だいりょう)(牡鹿郡の長官)道嶋大楯(みちしまのおおたて)ら関係者と伊治城に集まった時、未曽有の大事件が勃発します。陸奥国上治郡大領伊治公呰麻呂が反乱し、まず牡鹿郡大領道嶋大楯を殺し、次いで按察使紀広純を包囲して殺害します。いわゆる「伊治公呰麻呂の乱」です。

 「続日本紀」には、「陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反(そむ)く。徒衆(ずしゅう)を率いて按察使参議従四位下紀朝臣(あそん)広純を伊治城に殺せり…(以下略)」(原文は漢文)というようにことの詳細が記述されています。

 2年前の征夷では国家側の俘軍を率いて功績を認められていた呰麻呂が、反旗を翻したのです。また、「続日本紀」では、道嶋大楯がことあるごとに呰麻呂を夷俘(いふ)としてさげすんだことを記しています。

 伊治城に火を付けた後、呰麻呂の俘軍は陸奥介大伴真綱(まつな)を連れて多賀城へ向かい、多賀城を開城させて城内の物を略奪し、貴重なものをことごとく持ち去ったうえ、火を放って多賀城を焼き払いました。

 伊治城跡や周辺の集落遺跡、多賀城跡までの間の新田柵(にったのさく)跡(大崎市田尻)や一里塚遺跡(黒川郡大和町)の拠点遺跡、国府多賀城跡の発掘調査からは、大規模火災にあった痕跡が明瞭に捉えられています。

■争い、さらに北進

 特に、多賀城の火災の痕跡は1キロ四方の遺跡全体に及んでおり、政庁内の建物はほぼ全焼したと考えられます。牡鹿柵・牡鹿郡家の赤井官衙(かんが)遺跡館院(たちいん)1地区も火災で焼失しており、呰麻呂の乱に関連して道嶋大楯の居宅も焼かれてしまったのかもしれません。

 その後の伊治公呰麻呂は文献にも登場せず、歴史の舞台から消えてしまったのです。そして律令国家と蝦夷の争いは、さらに北の胆沢の地へと北進していくのです。

 伊治城を首として造営した陸奥大掾(だいじょう)の道嶋三山(みやま)、伊治公呰麻呂の乱の際、伊治城で殺害される牡鹿郡大領の道嶋大楯は牡鹿郡の道嶋氏一族です。栗原市の伊治城跡は、古代石巻地方と深い関わりのある所なのです。

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