発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 牡鹿郡家の移転
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢
<赤井官衙から田道町?>
8世紀の後半に入って、天平宝字2(758)年に桃生城が造営され、牡鹿郡の北半を分割して桃生郡が建郡されます。ちょうどその頃、牡鹿郡にも大きな変化がありました。
■主要施設を縮小
7世紀後半に関東地方から移民(柵戸(きのへ))が送り込まれて造営された牡鹿柵・牡鹿郡家(ぐうけ)(赤井官衙(かんが)遺跡)は、8世紀後半頃に主要な施設の多くを縮小させてしまいます。遺跡の西端にあった租税を納める倉庫地区、中央東寄りにあった郡領(郡の長官クラス)以上の高貴な役人の館である館院(たちいん)2地区、儀礼を行う南方院(なんぽういん)が機能を縮小してしまいました。特に倉庫地区は牡鹿郡内の租を納める米蔵で、郡家(郡の役所)の主要な機能の一つに当たります。つまり、8世紀後半に牡鹿郡家が赤井官衙遺跡から別のところに移った可能性が高いのです。
役所の機能はどこに移転したのでしょうか。もちろん、150万平方メートルもある広い赤井官衙遺跡内の別の地点に建て替えた可能性もありますが、現在までの発掘調査では分かっていません。移転した牡鹿郡家の可能性が高い遺跡として、石巻市田道町の田道町遺跡が挙げられます。
田道町遺跡は、赤井官衙遺跡から東に約7キロの石巻市田道町2丁目に所在します。古代牡鹿地方の中では南東端に位置する、北上川の河口西岸の浜堤上に形成された遺跡です。遺跡の東を流れる北上川を遡ると、桃生城跡の南西を通り狭隘(きょうあい)な北上高地の西を抜けて胆沢(いさわ)地域の蝦夷(えみし)の地へと続きます。また、北上川には、大崎地域のさらに北に広がる栗原地域を流れる迫川が桃生地域で合流しています。北上川から迫川を遡ると神護景雲元(767)年に造営された栗原市伊治城跡へつながります。8世紀後半から9世紀における城柵官衙関連遺跡が分布する河川交通の要衝・玄関口に位置しています。
田道町遺跡の本格的な発掘調査は1992年に行われ、古墳時代前期の集落、奈良時代後半から平安時代前半の掘立柱建物、竪穴住居、井戸、土坑(どこう)など、集落・官衙風建物群が発見されています。奈良・平安時代の竪穴住居は方形でほぼ真北に統一されています。同じ場所で住居の建替えや増改築されていて、長く営まれたことが分かります。住居の規模も規格性があり、一辺が8~10メートル前後の大型住居と3~5メートルの中・小型に分けられます。大型住居と中・小型の住居は集中する地区が異なっていて、地区ごとに機能・性格が異なっていたと考えられます。
■役所景観に似る
掘立柱建物には、地面を使う建物と高床倉庫があります。住居同様、ほぼ真北に統一されています。建物は20平方メートル前後の小型建物が主体を占めます。倉庫は12平方メートルほどの小型倉庫が複数建っています。住居の規模や建物・倉庫の数は一般の集落より多く、役所の景観に似ています。
出土遺物には、土師器・須恵器の土器類のほかに銅製銙帯(かたい)金具(役人の腰帯の飾り金具)や木簡(もっかん)(板状の書簡)、刀子(とうす)の役所特有の出土遺物も含まれています。特に、建物跡の礎板に用いられた木簡は、蝦夷に対して内国並みに出挙(すいこ)と呼ばれる種籾の貸付けを行っていたことを明らかにしたものです。出挙は役所が住民に種籾を貸付け、収穫時に利息を加えて稲を返納させる制度です。出挙木簡は、役所で作成された木簡ですから、田道町遺跡が役所に関連する遺跡であることを裏付けるものです。
また、田道町遺跡に隣接する清水尻遺跡からは9世紀代の須恵器に「毛」「女」「上」「十」「風」と墨書されたものが出土しています。文字が書ける人は、古代では役人のような知識人がいたことを示します。清水尻遺跡も田道町遺跡と一連の官衙関連遺跡として捉えることもできます。
■これからの調査
奈良時代後半以降の牡鹿郡を統括した役所跡が赤井官衙遺跡内で移転したのか、約7キロ東に離れた田道町遺跡に移ったのか、まだ確定していません。これからの調査・研究で明らかになっていくことでしょう。
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