発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 古代石巻地方の田夷「真野公」氏
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢
<稲井・真野が本拠の蝦夷>
■木簡文字を解読
今回は、奈良時代後半に牡鹿郡の役所が移転したと考えられる石巻市田道町遺跡から出土した木簡(もっかん)のお話です。
田道町遺跡の建物跡柱穴の底面付近から、柱の礎板(そばん)に転用された木簡が出土しました。礎板とは、柱が沈まないように柱の下に平坦な板材を挟むものです。木簡は腐朽していて完全な形をとどめていませんでしたが、表面に墨で文字を書いた跡がうっすら見えました。赤外線カメラを使って書かれた文字を解読します。
木簡の解読、分析は古代の出土文字解読の第一人者である元国立歴史民俗博物館館長の平川南さんが行っています。内容は延暦11(792)年に律令国家に服属した牡鹿地方の有力な蝦夷(えみし)「真野公(まののきみ)」集団に対して、出挙(すいこ)を「内国」なみに実施したことを示す史料でした。
■公民以外に出挙
出挙とは役所や富裕豪族が水田耕作を行う民に、春に種籾を貸付け、収穫時に5割から10割の利息を加えて稲束を返納させる高利貸し制度です。普通は律令国家の戸籍に登録された公民を対象に出挙が行われます。古代には蝦夷からは税を取らないことが基本とされていたのですが、田道町遺跡出土木簡によって、蝦夷にも出挙が行われたことが明らかになったのです。
木簡に記載された真野公氏は、どこに住む人々だったのでしょう。蝦夷に与えられる姓(かばね)が「地名+公(君)」姓を基本としますから、真野公氏は北上川東岸の石巻市稲井地区の真野地域を本拠とする蝦夷と考えらます。
古代東北研究の第一人者である東北学院大学名誉教授の熊谷公男さんの論考に拠れば「真野公」氏は「日本後紀」弘仁6(815)年に登場する賜姓記事が唯一で、田夷郡(でんいぐん)(服属した蝦夷を集めてつくった郡)である遠田郡の「田夷」諸氏の一人として登場します。遠田郡は「続日本紀」天平2(730)年、田夷村に郡家(郡の役所)を置いた記事があり、さらに天平9年に遠田君(とおだのきみ)氏の初見記事があります。
これらのことから天平2年に遠田郡が建郡されたと考えられています。熊谷さんは陸奥国における「田夷」の使用が遠田郡に関わる記事がほとんどで、固有名詞のように使用されていることから「遠田郡建郡の段階で既に、陸奥国では諸郡の田夷の主要部分が田夷村すなわちのちの遠田郡に集住させられていた」と推察しています。
従って、遠田郡の真野公氏も少なくとも遠田郡の建郡の段階までにさかのぼると考えています。さらに熊谷さんは「田夷村にその周辺の黒川以北十郡一帯の蝦夷が集住させられたのは、おそらく黒川以北十郡の編成と関連する」と考えています。
田道町遺跡の木簡と古代の文献から、真野公氏は牡鹿郡と遠田郡にいたことになります。熊谷説によれば、遠田郡は黒川以北十郡地域の蝦夷を集めて田夷郡として成立したと考えられるので、牡鹿郡の真野公氏の一部が遠田郡に移住させられたと考えられるのです。
また、田道町遺跡から出土した木簡は、同属である真野公氏一族全員が遠田郡に移住させられたのでなく、故地の牡鹿郡真野地域にも住み、牡鹿郡内の田夷として把握されていたことを明らかにしたのです。
■万葉集に登場?
ところで、万葉集三巻に「陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを」(笠女郎)という歌があります。「真野の萱原」を歌ったものは他にも金槐和歌集、新拾遺和歌集、新古今和歌六帖などの古代、中世の歌集にあります。
「真野の萱原」の場所についてはいくつか候補があり、近年までは福島県南相馬市鹿島地区の真野地域とする説が有力でした。しかし、田道町遺跡出土の木簡から、石巻の真野地域が古代から「真野」と呼ばれていることが分かりました。また、江戸時代、松尾芭蕉が石巻の真野を「真野の萱原」と呼んだ記録もあり、万葉集に歌われた「真野の萱原」が真野川の流れる稲井真野地域であった可能性が高まったのです。
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