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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 古代牡鹿・桃生の延喜式内社

延喜式内社(牡鹿郡・桃生郡)の分布地図(「石巻の歴史」第1巻を参考に作成)

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<海や川、山の安全を祈る>

 みなさんの家の周りには多くの神社があると思います。中には1200年以上も前から祀(まつ)られている神社もあります。今回は古代の神社の話です。

 「古事記」や「日本書紀」には数多くの神話を基にした歴史記述が見られます。ここからも分かるように、古代の日本は山や海に住む神、祖先を祀る神などたくさんの神々に囲まれていて、ヤマト王権の政治も「まつりごと」として神に祈りを捧(ささ)げながら行われてきました。

 飛鳥・奈良時代の法制度である律令(りつりょう)制度も、神をまつりごとに取り入れて制定されました。天皇を頂点とする律令制の機構は「二官八省」から成ります。「二官」とは「太政官(だいじょうかん)」と「神祇官(じんぎかん)」です。この神祇官が中央・地方の祭祀(さいし)をつかさどる役所に当たります。

 10世紀前半に成立した「延喜式(えんぎしき)」という書物に、当時の官社を記録した神名帳が掲載されました。これに記載された神社を延喜式内社(ないしゃ)といいます。延喜式に記載された古代の神社は全国で2861社あります。そのうち陸奥国の延喜式内社は100社あり、中央の神を祀ったものが37社、地方の神を祀った地主神が63社です。

古代牡鹿郡・桃生郡の延喜式内社一覧表

■陸奥国最多16社

 石巻地方では古代牡鹿郡内に零羊埼(ひつじさき)神社、香取伊豆御児神社、伊去波夜和気命(いこはやわけのみこと)神社、曽波(そわ)神社、拝幣志(おろへし)神社、鳥屋神社、大嶋神社、鹿島御児神社、久集比奈(くすひな)神社、計仙麻(けせま)神社の10社、桃生郡内に飯野山神社、日高見神社、二俣神社、石神社、計仙麻大嶋神社、小鋭(おと)神社の6社が記載されています。

■戦勝祈願反映?

 陸奥国内では1郡当たり平均3.1社ですから、牡鹿郡、桃生郡は突出して多いことが分かります。牡鹿郡は陸奥国でも最多です。ある研究者は、奈良時代から平安時代初期にかけて蝦夷との戦いの過程で、中央政府が戦勝祈願に神社を利用したことが、古代の神社数に反映されていると考えています。

 神社の種類について少し説明を加えると、香取や鹿嶋の名の付く神社は下総国香取神宮や常陸国鹿嶋神宮に関連して航海の安全をつかさどる神を祀るもので、さらにその神は古事記・日本書紀の神話から、国の安寧をつかさどる神でもあります。

 曽波神社、日高見神社、二俣神社は北上川を見下ろす小高い丘の上にあって、龍の住む荒ぶる川を鎮める神社と考えられます。石神社は巨岩を神にたとえて祀る神社です。こうして見ると、石巻の特質である海や川、山の安全を祈る神社が多いようです。

■元「ケセマ」論も

 計仙麻神社や計仙麻大嶋神社は「ケセマ」神という地主神を祀るものです。のちの気仙の語源になったものです。平安時代初めに成立したとされる気仙郡(気仙郷、大島郷、気前郷で構成)は、現在の宮城県から岩手県南部の三陸南部に当たります。

 ところが、気仙郡には計仙麻神社や計仙麻大嶋神社といった「計仙麻」の名のついた神社がありません。ある研究者は、古代牡鹿郡、桃生郡、気仙郡は元々「ケセマ」と呼ばれた地域であって、ケセマ地域に丸子氏などの移民が来てからケセマ地域の南部を牡鹿と呼び、牡鹿柵・牡鹿郡が設置されたのではないかと考えています。真偽は定かではありません。

 ところで、天平宝字2(758)年、律令国家は牡鹿郡の北部に桃生城を造営しました。程なく桃生郡を建郡するのですが、延喜式内社の分布を見ると牡鹿郡を分割してつくった桃生郡の範囲が分かります。桃生郡の延喜式内社は、旧桃生町、河北町、北上町、雄勝町の範囲に分布しています。この範囲が古代の桃生郡域だったのでしょう。

 みなさんの身の回りにある神社が1200年以上も前から信仰の対象となっていたと考えると、驚きと同時に古代の石巻の歴史が身近に感じられるのです。

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