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旧海軍空母「翔鶴」の最後、克明に 石巻の故三浦さん記録、復員時の荷物から見つかる

三浦さんの文章などをまとめた冊子を見る義介さん

 太平洋戦争のマリアナ沖海戦(1944年6月19~20日)で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した日本海軍の空母「翔鶴」に海軍少尉で機銃指揮官として乗船していた三浦仁太郎(にたろう)さん=石巻市須江、80年に67歳で逝去=が、翔鶴最後の1日を克明に書き残していた。亡くなった後、復員時の荷物から見つかった。現場の様子と当時の心情が書かれている。

 最初の魚雷が着弾したのは、味方の飛行機隊が攻撃に出てから数時間がたった6月19日午前11時20分ごろ。

 「雷跡!」という伝令の声と折り交ぜて「びびん~」という大衝撃。敵潜水艦に裏をかかれた悲しさと憤りで空が二つに割れたような気持ちだった。

 間もなく「大きな底力のある爆発音」があり、火災が発生する。懸命の消火作業が行われるが、被害は拡大していく。

 「死」の恐怖から離れるためにも消火に夢中になることは必要だ。国家のために、翔鶴のために、日本男児の「義」のために、と考えたら己の小さい肉体の生命などは、遥(はる)かに比重が軽いのだ。

 頭上から火煙が、床下からは海水が迫る。いよいよ艦を離れる時が来る。

 ついに私の足は飛行甲板から離れていった。翔鶴と別れたのである。手足を十分に伸ばし、深く潜った。きれいな海水で着物から千人針まで全部気持ちよくしみ込ませた。

 沈みゆく艦を海に浮かびながら部下たちと見る場面は、衝撃的ながらどこか淡々とした筆致だ。

 艦橋を支点に艦尾が急に高く持ち上がった。その時、初めて乗員の主力がいることが判った。黒山のごときに整頓していた人がばらばらと落下した-。

三浦さんが描いた沈みゆく翔鶴。水煙の向こうに船尾が見える

 八丈島で終戦を迎えた三浦さん(終戦時は中尉)は45年11月に復員した。

 長男の義介さん(81)=石巻市須江、畳石観光会長=は「書くことが好きで、厳しい父親だった」と話す。翔鶴をはじめ、戦争や平和に関する文章が多く残され、82年の三回忌に合わせ、次男の源太郎さん(76)=横須賀市=が冊子にまとめた。

 三浦さんが翔鶴から海中に身を投じる直前に息子を思い出すシーンがある。

 倅(せがれ)よ、義介よ、俺は残念ではあるが海へ飛び込むぞ。負けて逃げるとは思わない。父の泳ぐ格好を見て笑うでない。

 「戦地でも(自分のことを)忘れていなかったんだと思うと涙が出た」と義介さん。「年を取り(父親の文章を)夜に時々眺めるようになった。戦争は人類最大の過ち。二度と繰り返してはならない」

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