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発掘!古代いしのまき 考古学で読み解く牡鹿地方 > 牡鹿地方の須恵器生産

古代石巻地方の城柵官衙遺跡と須恵器窯跡分布図
須江窯跡群の須恵器窯跡分布図

【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】

第5部 律令国家の蝦夷支配と軋轢

<須江丘陵全体に窯分布>

 先史・古代の遺跡で最も多く出土するモノは、土器です。日本は火山国で、土壌は酸性が強い特性があります。動物や植物は有機質ですから、酸性土壌では分解され土に変化してしまうスピードが速いのです。それに比べて石や土で作られた無機質のモノは腐りにくいので、1万年以上たっても残ります。

■進化する焼き方

 日本で使われた土器は、古い順に縄文土器、弥生土器、土師器(はじき)、須恵器(すえき)と続きます。縄文土器や弥生土器は時代の名前が付いているように、それぞれ縄文時代、弥生時代に使われた土器です。この時代の土器作りは、専門の職人はおらず、村々で土器を作る「村落内手工業」として行われていました。村の周辺にある良質な粘土を採取し、不純物を取り、成形しやすいように砂などを混ぜて練り、粘土紐(ひも)を積み上げて形を作っていきます。この頃はまだ、土器づくりにろくろは使用していませんから、小さな葉っぱや敷物の上で敷物ごと回しながら作っていたようです。形が完成すると日陰干しをして乾燥させ、薪(まき)の中に置いて700度前後で野焼きされます。

 古墳時代には、弥生時代から続く素焼きの焼き物として土師器が作られました。土師器も野焼きで焼き上げるのですが、温度を上げるために上部を土などで覆って焼く、覆い型野焼きに変化します。この焼き方だと800度位まで上げることができます。

 古墳時代の中期(5世紀)に、朝鮮半島の伽耶(かや)地域からトンネル構造の窖窯(あながま)(登り窯)で硬質の土器を焼く技術が伝わります。この窯で焼かれた土器が須恵器です。

 山の斜面にトンネル状の穴を掘って、穴の下方で薪を焚(た)いてトンネル内を高温にします。この焼き方だと、1200度位まで上げることができ、土器もかなり硬質に焼き締まります。さらに、焼き上げの最終段階で酸素が入らないように穴を塞(ふさ)いでしまいます。そうすると窯の内部は青くなってしまいます。須恵器は、土色の土師器と違って、青色で硬質な土器なのです。

 また、須恵器は形を作るのにろくろを使います。そして窯で焼き上げるという技術は専門の工人でないとできない特別な技術です。ですから、須恵器は集落内で誰でも作れるわけではないのです。

 須恵器生産はヤマト王権のあった大阪府和泉陶邑(すえむら)に定着して、長く作られ続けます。その間、古墳時代後期(6世紀)には福岡県、兵庫県、岐阜県、愛知県、静岡県などに拡散し、大規模産地が増加します。

 東北でも、5世紀に仙台台原で生産されますが、継続することはありませんでした。須恵器生産が定着するのは飛鳥時代(7世紀)になってからです。

■最初は太田窯で

 石巻地方で最初に須恵器が生産されたのは、桃生町太田窯跡です。太田窯は律令(りつりょう)国家が天平宝字2(758)年に桃生城を造営する際、必要な屋根瓦と須恵器を生産するため、桃生城の近くに作られました。残念ながら、太田窯は土取りなどで、現在は残っていません。

 桃生城が造られた後、牡鹿地方の大豪族である道嶋氏が牡鹿柵(おしかのさく)・牡鹿郡家(ぐうけ)(赤井官衙(かんが)遺跡)で必要な屋根瓦や須恵器を生産させるために、石巻平野の中央に位置する須江丘陵に須恵器工人を招聘(しょうへい)します。須江丘陵は北端の糠塚地区から南端の関ノ入地区まで良質な粘土が採れ、きれいな水、燃料となる木材などが豊富であったのでしょう。奈良時代後半(8世紀後半)から平安時代前期(10世紀前半)まで継続して須恵器が作られました。須江丘陵の窯跡群を総称して「須江窯跡群(すえかまあとぐん)」と呼んでいます。

■予想は100基超え

 1980年代後半から1990年代に、河南東中学校建設や関ノ入工業団地、しらさぎ台住宅団地造営に伴う発掘調査が行われました。調査された窯跡は30基を超えています。丘陵全体に窯が分布しているようなので、詳細に分布調査を行えば、その数は100基を超えると予想されます。須江窯跡群は古代陸奥国海道地方最大の須恵器生産地なのです。次回から何回かに分けて少し詳しく紹介しましょう。

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