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わいどローカル編集局 > 広渕(石巻市・河南地区)

左手に見えるのが広渕小。町並みの奥に田畑が広がる(石巻ロイヤル病院から撮影)

「わいどローカル編集局」は石巻地方の特定地域のニュースを集中発信します。11回目は「石巻市広渕」です。

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白石城主が拝領、入植

 角川日本地名大辞典によると、広渕の地名は玉造川(江合川)が流れていた頃、町境に広い淵があったことが由来とされる。

 一帯は「淵」の字を使った「広淵村」と称した。1628(寛永5)年に白石市の白石城主片倉小十郎重長が、広淵谷地など12カ所を知行地として拝領し、家臣団が入植した。1889(明治22)年に桃生郡深谷村の大字になったが、96年に深谷村解散のため再び立村。1955(昭和30)年に鹿又、前谷地、北村、須江と計五つの村が合併し、河南町が誕生した。

 現在の広渕地区の行政区は町上、町下、柏木、砂押、新田の5地区で、9月末現在の住民は3612人。国道108号沿いには石巻ロイヤル病院、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどが並ぶ。

 1589(天正17)年創立と伝わる広淵寺(こうえんじ)の奥野昭典住職(59)は「40~50年ほど前には理髪店や魚屋も並んでいた。くわやてい鉄などを売る鍛冶屋もあった」と振り返る。石巻ロイヤル病院前の交差点近くにはかつて映画館があり、大塩、赤井方面からも客が訪れたという。

漁業、ハス、渡り鳥…まち潤した「広淵沼」

明治初期の広渕村周辺の地図。右上に「廣淵大堤」と記載がある(県公文書館所蔵)

<1662年 用水供給へ築造、1920年 干拓され水田に>

 JR石巻線前谷地-佳景山間の南側一帯に、かつて「広淵沼」と呼ばれるため池があった。

 河南町史によると、1662(寛文2)年、仙台藩4代藩主伊達綱村の時代、新田開発のかんがい用水供給を目的に築かれた。築造以前は湿地帯で、江合川が南に流れ、現在の定川の流路を経て海に流れ込んでいたらしい。

 江戸時代には「大堤」と称し、村名から広く「広淵沼」と呼ばれた。1878(明治11)年に「広淵大溜池」と改称。かんがい地域は広渕地区だけでなく、前谷地、鹿又、北村、赤井、蛇田、須江、中津山、石巻の9地区約2508ヘクタールに及んだ。

 72(明治5)年のものとされる古地図(上の図、県公文書館所蔵)には、右上に大きく「廣淵(ひろぶち)大堤」と記述されている。

 沼はヒシ、ハスなどの水性植物や魚介が繁殖し、ハクチョウやガンといった渡り鳥の生息地になっていた。

 コイ、フナ、ウナギ、エビの漁が行われ、広渕でも漁師を専業としていた人々がいたという。エビは干しエビとして秋田や山形にも販売された。

 1920(大正9)年、地域住民の願いもあり、県が干拓に着手。面積658ヘクタール、総事業費は当時の価格で121万円で、28(昭和3)年に完成した。沼は10区画に分けられ、131戸が移り住み、砂押、糠塚、赤羽根などの周辺に住まいを持ちながら、米作りをした。

河南鹿嶋ばやし、広渕小で代々継承

5年生が見守る中、大太鼓の手本を見せる6年生
6年生(手前左)から締太鼓の指導を受ける5年生

<太鼓と笛、耳だけで習得>

 石巻市広渕地区に200年以上前から伝わるとされている伝統芸能「河南鹿嶋ばやし」。広渕小(児童184人)の子どもたちが伝統の継承者として、6年生が代々伝承し続けている。

 おはやしは4曲あり、それぞれ春夏秋冬を表現。大太鼓、締(しめ)太鼓、笛で独特の音律を奏でる。同小では楽譜がないおはやしを耳だけで伝承。6年生の演奏を1年生のころから聞き続け、習得する。先輩の力強い演奏は後輩の憧れとなっている。

 5年生になると少しずつ練習を始める。10月頃に担当楽器を決めるオーディションがあり、翌年2月に伝承式、4月の「河南鹿嶋ばやし山車(だし)まつり」でお披露目する。

 17日の同校体育館。オーディションに向け、6年生は手本を見せた後、指揮を執り、5年生の音程や姿勢をチェックし、パートごとに指導した。

 大太鼓の反省会で6年生は「家の中でも太鼓があると思って練習してほしい」「昼休みなどに練習するときは呼んでもらいたい」などとアドバイスした。

 第35代総リーダーを務める6年佐藤天真君(12)は大太鼓を担当。5年生の練習を見て「まだ欠けている所がある。自分で気づくようになるといい」と厳しいまなざしを向ける。

 「昔から伝承されている鹿嶋ばやしをもっと深く知って、次につなげてほしい」と後輩に期待を寄せる。来年も新たな担い手が広渕におはやしを届ける。

山車華やか、春告げる祭り

1991年の河南鹿嶋ばやし山車まつり。花馬車の中で子どもがおはやしを奏でる(河南鹿嶋ばやし保存会事務局の木村寿人さん提供)
1993年のサン・ファン・フェスティバルのために制作した山車(河南鹿嶋ばやし保存会事務局の木村寿人さん提供)

 4月半ば。河南鹿嶋ばやし山車(だし)まつりが広渕に遅い春を告げる。

 鹿嶋ばやしの起源は定かではない。1820年頃、冷害や洪水、凶作、疫病の流行が襲った。飢饉(ききん)に見舞われた21(文政4)年、五穀豊穣(ほうじょう)、無病息災、家内安全を祈っておはやしが創作されたと推定されている。

 以前は町上地区と町下地区がそれぞれ山車を作り、ぶつけ合うなどして競っていた。1973(昭和48)年に河南鹿嶋ばやし保存会が発足。以降保存会を中心に山車の制作や祭りが行われた。準備は年末頃から4~5カ月かかり、和紙を切り作る桜の花だけで6万~8万枚を作るという。

 87(昭和62)年には未来の東北博覧会などのイベントでも山車とおはやしを披露。93(平成5)年のサン・ファン・フェスティバルでは、会場近くに設けた仮小屋で山車を作り、練り歩いた。

 鹿嶋ばやしは打ちばやし、愛宕ばやし、豊年ばやし、送りばやしの4曲を、口承と演習で受け継ぐ。広渕中で伝承していたが、地域の3中が89(平成元)年に統合して河南西中となって以降は広渕小で引き継いでいる。

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 今回は広渕販売店と連携し、藤本久子、相沢春花、石井季実穂の各記者が担当しました。次回は「東松島市小野」です。

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