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生き続ける彫刻家・高橋英吉 故郷の石巻市博物館、海の3部作など500点余所蔵

 石巻市が生んだ彫刻家高橋英吉が今再び、脚光を浴びている。31歳でガダルカナル島で戦死、将来の夢を絶たれたが、英吉の人と作品は戦後も市民の心に生き続けてきた。東日本大震災を乗り越えて今は同市開成の市博物館(市複合文化施設=マルホンまきあーとテラス=内)で英吉の魅力に触れることができる。不安と混迷が覆う今の世界、温かみと生命力にあふれる作品群が人々に生きる希望を与える。(久野義文)

代表作「海の3部作」。(左から)「漁夫像」(1941年)、「潮音」(39年、第3回文展特選)、「黒潮閑日」(38年、第2回文展入選)

 石巻市博物館は遺族から寄贈された英吉関連資料(手紙、デッサンなど)も含めて500点余を所蔵している。「祈りのかたち いのちへのまなざし」をテーマにした高橋英吉作品展示室には海の3部作といった代表作のほか、東日本大震災と文化財レスキュー(注1)についても紹介している。

 特筆すべきは英吉が妻澄江に宛てた恋人時代以来の手紙が多数、残されていること。澄江への率直な思いや芸術に対する姿勢・考え方がつづられており、素顔の英吉の姿を垣間見ることができる。学芸員の泉田さんは「手紙をひもとくことで英吉の生き方、作品への理解が深まる」と指摘する。

(注1)津波で被災した石巻文化センターから英吉作品を救出。県美術館や国立西洋美術館、東京芸術大学などで修復。英吉作品は県美術館で保管。2022年、市博物館のオープンに合わせて県美術館から古里・石巻に戻ってきた。

戦地から家族に送った絵はがきも展示されている。レコードを聴く兵士の姿など戦場の中での日常の一コマをはじめ、日本艦隊を描いた絵もある。戦地での英吉の思いが込められている
聖観音立像(1940年、第5回東邦彫塑院展・東邦彫塑院賞)南氷洋から日本に帰港する数日前、母の訃報を知る。母を弔うために制作。石巻高蔵
「不動明王像」(1942年)と自作彫刻刀。ガダルカナル島に向かう輸送船の中で、手製の彫刻刀で彫る。家族のもとに届くよう従軍記者に託したと伝えられる。絶作

■高橋英吉(1911~42年、石巻市生まれ)、旧制石巻中(現・石巻高)から東京美術学校(現・東京芸術大)彫刻科に入学。36年、研究科に進み文展に「少女像」を出品、初入選する。同科を中退し鮎川港から捕鯨船に乗り南極海へ向かう。帰国後、生まれたのが海の3部作(黒潮閑日、潮音、漁夫像)。28歳の若さで「潮音」が第3回文展で特選受賞。無鑑査の資格を得て将来を嘱望される。40年に澄江さんと結婚。翌41年、長女幸子さんが誕生したが間もなく召集される。42年11月、ガダルカナル島で戦死、31歳だった。短い活動期間だったが、その才能を伝える作品が後世に残された。

学芸員・泉田邦彦さんに聞く

高橋英吉の人と作品の魅力を多くの人に知ってもらおうと情報発信に力を入れる学芸員の泉田さん

<今につながるストーリーに可能性>

 福島県双葉町出身で現在、石巻市博物館学芸員の泉田邦彦さん(34)は、2018年に石巻市職員になるまで英吉のことを知らなかった。実際に作品をじっくり鑑賞できたのは21年10月、市博物館の開館1カ月前だった。東日本大震災後、保管していた県美術館から帰ってきた時だった。

 「図録で見ていたが、実物を目の当たりにして、これが海の3部作(黒潮閑日、潮音、漁夫像)かと力強さに圧倒された。港町で育った英吉の根底には『海』がある」

 自分が感じた英吉作品の魅力を、さらにもっと多くの人に知ってもらえるか。震災の影響は大きかった。

 「地元で英吉作品を見られなかった空白期間が10年もあった。若い人たちは英吉を知らないまま育った。博物館に来てもらうという従来の受け身的なやり方だけではだめで、博物館から能動的に情報を発信していく必要がある」

 一つの方法が学芸員による出前講座。子どもたちには郷土の歴史・文化を学ぶ機会を設けて、その中で英吉を取り上げる。

 泉田さんが着目しているのが英吉が歩んできた人生だ。「若い作家のもがき、結婚と一人娘・幸子さんの誕生、戦争という不条理。彼の人生を重ね合わせることで作品が今まで以上に我々の胸に響くはず」

 英吉の死後も続く英吉を巡るストーリーにも、いろいろな可能性を見る。

 「郷土史家だった橋本晶さんを中心とした市民全体の運動があった。レクイエム作曲(※1)、映画づくり(※2)、出版化(※3)と市民の盛り上がりに驚かされる。震災もあった。文化財レスキューによる英吉作品の修復、博物館への帰還と今に至る。昭和から令和の現代につながるストーリーを持っているのが英吉作品最大の魅力だ。市民の心に英吉は生き続けている。もう一回、英吉のムーブメントを起こしたい」

(※1)1983年7月、市制50周年記念・鎮魂曲「高橋英吉に捧げるオーケストラのためのレクイエム潮音」初演
(※2)同年12月「潮音 ある愛のかたみ」試写会
(※3)86年7月「青春の遺作 高橋英吉 人と作品」発刊

鈴木哲也さん、「童子和音」どこに 石こう像が手掛かり

鈴木さんと石こう像「笛吹く童子」

 高橋英吉が制作し、行方不明になっている木彫像「童子和音」を探している人がいる。白石市内の小学校教頭鈴木哲也さん(56)=柴田町=だ。英吉の人と作品に魅せられた一人で、英吉の長女幸子さん(82)=神奈川県逗子市=との出会いから始まった。

 2020年1月、幸子さんの工房で対面したのが、「童子」が笛を吹く姿をかたどった石こう像(高さ47.5センチ)だった。「とても柔和な顔をしていた。怒ったところを見たことがないと言われた英吉の顔と重なり、自然と涙が流れた」

 石こう像自体、戦時中、知人宅に預けられ、11年に幸子さんに返却されたものだった。

 その石こう像にたくさんの×印がついている。彫刻技法の「星取り法」で、これを木材に転写し彫った。

 鈴木さんは「英吉がこの技法で制作したならば木彫作品があるはず。石こう像は『童子和音』の原型ではないか」と推理する。

 実際、市博物館が所有する英吉直筆と見られる作品リスト15点の中に「童子和音」がある。「(昭和)十五年九月作 仙台西島蔵」と書かれている。英吉が召集される約1年前だ。

 鈴木さんは「平和で、のどかな世の中になってほしいという願いを、英吉は童子和音に込めたのかもしれない。手掛かりは仙台の西島さんという家だが、戦時中、仙台も空襲に遭っているので詳細は分からない」と話す。

 現在、石こう像は「笛吹く童子」という名称で市博物館に展示されている。幸子さんが同館の開館に合わせて寄贈した。

 「笛吹く童子」に会いに来ることを楽しみにする鈴木さんは「(童子和音と)きっと出合える日が来ることを信じている」と強調する。

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