閉じる

女川・出島、悲願の架け橋 開通へ(1) 道のり 半世紀超え、夢つながる

 女川町の離島・出島と本土の間に昨年11月、橋が架かった。道路の舗装工事などを経て今年12月の開通を目指す。出島架橋は40年以上前からの地元住民の悲願だった。陸路でつながることで島の暮らしは大きく改善し、有事の避難路にもなる。実現までの道筋をたどりながら、生活やなりわい、観光面での期待や課題を探る。(及川智子、大谷佳祐、西舘国絵)=6回続き=

島と本土をつなぐ出島架橋を出島側から望む。道路の舗装工事などを進め、12月の開通を目指す

 出島港の船着き場に立つと、看板などに書かれた「つなげ本土に届く橋」「実現させよう!出島架橋」といった文字が目に飛び込む。目と鼻の先に、開通に向けた工事が進むアーチ型の橋が存在感を放つ。

 出島の昨年11月末現在の住民数は92人。最盛期には約1800人が暮らした。面積2.68平方キロメートルの小さな島だが、豊かな水産資源を誇り、以前は小中学校や診療所、商店もあった。

 住民が「出島架橋促進期成同盟会」を設立したのは45年前の1979年。生活の安定や利便性向上をはじめ、観光や教育振興、過疎防止を願い、陸路で本土とつながる日を夢見た。

■要望活動が発展

 87年には町を挙げた活動に発展。国や県への要望を長年重ねたが、巨額の事業費を要する橋の建設は動き出さなかった。東日本大震災で甚大な被害を受け、約500人いた住民は島外へ避難したまま島を離れるなどし、人口減少が加速した。「このままだと人がいなくなる」。水産業の担い手が減り、島の経済的価値が失われれば町全体への影響も大きい。町と住民は危機感を強めた。

 2014年度、町は自らが主体となって事業を進める方針を決め、計画が動き出す。翌15年度の政府予算で詳細設計費などが配分され、事業化が決まった。同盟会の須田勘太郎会長(83)は「先人から引き継いだ長年の夢。その実現がスタートした」と当時の喜びを振り返る。

 島民にとっては同盟会発足前からの悲願だった。「仲人に2、3年で橋が架かると言われて島に来たのが、60年前」。東松島市宮戸から嫁ぎ、島内の寺間地区に住む阿部嘉代子さん(79)が笑う。開通を見据えて運転免許も取ったが、これまで島と本土を車で行き来することはなかった。「やっと橋が架かる。島外に住む子どもや孫も来やすくなる」と顔をほころばせた。

■歴史的瞬間 喜び

 昨年11月、架設工事が大詰めを迎えた。アーチ状の中央部が架けられ、両側がつながった。島からも、本土側の町内で行われたパブリックビューイングでも、多くの人が歴史的瞬間を見届けた。12月には島民らの現場見学会も開かれ、参加者が開通後に思いをはせた。

 島で生まれ育った須田会長は、整備実現に力を注いできた先人たちを思い「歴代の会長たちに『橋が載っかったよ』と伝えたい」と話す。高台の自宅から港に下りると、日に日に完成へ近づく橋が目の前に現れる。「毎日『本当に橋が架かるんだ』と思う」

【出島架橋整備の年表】
1987 島民による出島架橋促進期成同盟会が町を挙げた組織となり、 
     町出島架橋促進期成同盟会を設立 
  88 島内の出島-寺間間を結ぶ県道出島線の整備着工 
2001 別組織だったアクセス道路整備促進期成同盟会と統合 
     町出島架橋・アクセス道路整備促進期成同盟会となる 
  11 東日本大震災 
  15 町道女川出島線出島架橋事業の新規採択 
  16 県道出島線が全線開通 
  17 町道女川出島線が着工架橋本体工事を委託する県と基本協定締結 
  18 県が架橋本体工事を契約 
  20 両岸の橋脚や橋台、津市での架橋本体の部材製作が開始 
  22 女川港で架橋本体の組み立て作業開始 
  23 架設工事が完了 
  24 12月開通予定

1979年8月に掲載された河北新報の記事。同盟会の発足について伝えた

関連リンク

関連タグ

最新写真特集

石巻かほく メディア猫の目

「石巻かほく」は三陸河北新報社が石巻地方で発行する日刊紙です。古くから私たちの暮らしに寄り添ってきた猫のように愛らしく、高すぎず低すぎない目線を大切にします。

三陸河北新報社の会社概要や広告、休刊日などについては、こちらのサイトをご覧ください

ライブカメラ